『“再現性”の必要性』の話
神保町裏路地日記(66)
2025/01/16㈭
『再現性って大事だよね』と言われたら、それはそのとおりだと思います。ちなみに再現性と言う概念の意味をWikipediaで検索してみると以下のように出てきます。
例えば企業において、組織が共通の目標達成に向けて行動する中でとかく個人の能力に左右される属人的になりがちな営業活動について言えば、「こうすれば契約が取れる」という成功パターンの確立とその再現性を高めることはとても重要なことです。
ものづくりにおいても、例えば車の部品一つとってもそれが無ければ完成しないというパーツが『今出来たものと次出来るものが違う』となったら大変ですから、これも当然再現性が求められます。
料理もそうです。「そうそう!このいつもの味が好きなんだよ。」と嬉しくなる事もあれば「何かこの店味が安定しねぇな。」とがっかりすることもあったりすると、再現性って大事だなと思います。社会が効率的に、安全に回るためには、再現性っていうのは無くてはならないと言っても過言ではありません。
逆に『再現性の低いもの』が何かを考えたとき、僕の場合はすぐに思いつくのは趣味の“登山”です。『いつも行く山』はあっても、その山がいつも晴れとは限らないし、いつも快適な気温というわけでもない。雨で道が濡れていることもあれば落ち葉で道が見えないこともある。絶景が見られることもあれば、何も見えないこともある。例を挙げればきりがなく、再現性とはかけ離れた活動だなと思います。
再現性とは一見無縁の登山ですが、それでも『山が好き』と言う人がいるのだから不思議です。むしろ、再現不可能性に期待している部分さえある。と言うか、『再現不可能性に期待する』と言うよりも『一期一会を期待している』と言った方が適切かも知れません。
登山も再現性が求められる趣味ではあるのです。安全な歩行運動や登攀のためのアクションを繰り返す時は、間違いなく再現性が求められます。この再現性の質は時に命に関わりますから重要です。
んんん?じゃあ『登山の再現性の低さ』というイメージはどこから来たんだ?と考えると、それが内的要因か、外的要因かと言う点に言及されます。つまり、『自分の行動/運動/判断』といった自分の内側に要因としてあるものと、『天気/野生動物との遭遇/天変地異』と言った自分にはどうしようもないものがあって、その割合の大小の問題だということです。自然の中ではその『自分ではどうしようもないこと』との遭遇さえ面白いと言うのが、登山という趣味の醍醐味だと思うわけです。日頃再現性の社会に身を置いていると、景色にしても人にしても、一期一会的な出会いに期待してしまう世界にもたまには身を置いてみたくなるのかも知れません。
いやぁ、本当はもうちょっと違うことを書きたいのだけど、長くなってきてしまった。
僕が言いたいのは、つまり、「再現性の高い世界は便利だけど面白味に欠けるかもね」ということです。逆に言えば、「再現性の低い世界は、不便だけど面白いこともあるかもよ」ということです。どちらが大切かということでは無く、どちらも大切で、何をする時にそのバランスをどうするかを自分で決められることが人生の面白いところであって、その上でどうにもならない偶発的な外的要因もぶっ込まれたりするからそれも面白味として捉えられたら楽しいねと言うことです。
昨日、お酒やコーヒーの話になった時に『再現性』って言葉が出たから考えてみようと思ったんです。そうしたら、結局山の話で終わってしまった。昔々、「うちは再現性の低い酒蔵のお酒は取り扱わないんです。」って話を酒屋さんから聞いたことがあって、それが凄く違和感だった。とか、色々議論してみたいテーマはあるんだけどさ。