自分の価値観で生きる人間の結末は?◆ニーチェ【大預言アーカイヴス】
鼎談:「ぷろおご×伊予柑の大預言」をアーカイブします
大預言を読む
スペシャルゲストに素数量子さんをお招きしております。この記事は鼎談を加筆編集したものです。
◼️今回の課題図書
社会に迎合しないアスペが自分の価値観で生きると、熱狂的なファンがうまれる
伊予柑:今回はニーチェです。ニーチェといえば「神は死んだ」という言葉が有名で、キリスト教の価値観を終わらせた人かもというのもあり、ASD;アスペルガー傾向のある人にとっては希望の星です
ぷろおご:昔のドアスペが苦しみながら書いた
伊予柑:正直、アスペの詩なのでロジックで理解してはいけません。「ああ、わかる・・」みたいな感じで読むのがおすすめです。素数さんはめっちゃわかる〜って読んでいたそうで、ニーチェのいいところを教えてください
素数さん:やっぱり意味不明なところがいちばんいいですね
今だから我々はニーチェすごい!みたいな話ができますけど、当時は意味不明すぎて誰も授業とかちゃんと聞いてないし、学者としてもパッとしていなくて…とにかく不幸な人生だったんですよ。そういう、どん底を生きた人間が「オレはオレの価値観で生きてるから関係ねえ!」って本気で言っているところがすごくて
素数さん:「自由に生きるんだ、他人なんか関係ねえ!超人だぜ!」みたいな、今でいうとホリエモンと似たようなことを言ってたんですけど、ホリエモンとは決定的に違うところがひとつあって、ニーチェは社会的にまったく成功してないんです
ぷろおご:チヤホヤされなかったんだね
素数さん:まったくチヤホヤされなかった。むしろ意味不明な人間としてどんどん社会から孤立していって、最終的に、「いや、オレはいいんだ!」みたいなところに辿りついている。それがすごいんですよ。
大部分の人間はなんだかんだで社会的な承認を求めてしまうけど、ニーチェは違うんです。ホリエモンも一見、自由を唱えているようで、結局はなんだかんだでお金を稼ぐことに最適化されてるところがあると思うんです。
自由を追求しているというポーズをとることでお金を稼いでいるんですけど、ニーチェはそういうところが全然ないんです。要するに、一貫して社会的な承認に負けず、狂ったように意味不明なことを言い続けているというところに自分は惹かれたんですよ
ぷろおご:主張というよりは生き方とかそっちに惹かれたんだ。ニーチェ本人に対する興味が強いんだね
素数さん:ニーチェが言ってるから尚更ってところは大きいですね。これがもしニーチェがちょっとでも評価されてチヤホヤされてたら、多分そうじゃなかったと思うんです
ちいかわをこきおろす人には、ニーチェの素質がある?
伊予柑:今日はスペシャルゲストがいるのでお招きしていいですか?
ぷろおご:?
伊予柑:スペシャルゲスト、畜群代表ちいかわさんです
ぷろおご:わァ〜!
伊予柑:ニーチェさんは、畜群、畜生の群れ、動物の群れというふうにちいかわさんのことをバカにしておりまして
あいつらはニーチェさんのいう超人、アスペの「オレたち1人で生きていけるもん」派閥に対して、群れて嫉妬し、同情心を買うことで、超人を引きずりおろそうとしている。というふうに主張してるんですよ。緑の牧場の羊たちであるみたいなことをずっとおっしゃっていて、
ぷろおご:すごい
伊予柑:うさぎはわりとニーチェなんですよ。ヤハって言って、ちいかわのことを気にしない。バカにはしてないですけど
ぷろおご:たしかに、気にしてないですね
伊予柑:ニーチェさんはちいかわのことを憎んでいるんですよ
ぷろおご:ニーチェのちいかわ批判
バーチャルフィールドワークにでかけよう。ツイッターでは野生のニーチェとルサンチマンの蠱毒がおこなわれている
伊予柑:ぷろおご先生も一時期ニーチェされてたのでは?与沢翼の本とかに出ていらっしゃったころとか
ぷろおご:どうなんでしょうね
素数さん:え・・
伊予柑:黒歴史があるんですよ
ぷろおご:レンタルなんもしない人はこの本を好きみたいで、いつも持ってるらしいんですけど、メディアでおれのことを話すときに超人って呼ぶんですよ。ただの悪口なんですけど
伊予柑:いやいや!褒めてますよ
ぷろおご:インテリ悪口ですよね。要するにあんまり社会的でないとか、社会と調和してないとかね
伊予柑:己しか信じるものがなく、己を超えることにより超人として生きていく。そういう生き方の人は、けっこうツイッターにいらっしゃいますよね
ぷろおご:野生のニーチェがね。誰も見ていないのに崇高な概念をずっとつらつらとしゃべれる人っていますよね
伊予柑:どうやら野生のニーチェにはラベルがあって、MENSA会員って言うんですけども・・
ぷろおご:やめてくださいよ。よくないよ
伊予柑:やだなあ、超人でいらっしゃってすごいなあとしか言ってないですよ
ぷろおご:超人はいいことですよね
自分のままならなさを克服しようと生きる人にとって、ケアは心地よくないものか?
伊予柑:ちょうど『居るのはつらいよ』という本の真逆にあるのがニーチェなんですよね
ぷろおご:ケアは人間が人間によってもたらされる印象がつよいんだけど、ケアを得るには必ずしも人と関わらなければならない、というわけではないとおもうんだよね。
自分にとってケアになる行為、たとえば部屋を掃除するとかもそうだし、文章としてまとめて論文にして出すとか、そういう社会と接続したり、自分のなかで儀式を繰り返すことによって得られるケアあるとおもっていて、
そうすると、人と関わらずに自分で自分をケアするっていうのは、なんかヴィーガンみたいですよね。
肉は食べないけど、それに類するものは食べる。大豆を食べてタンパク質を補うように、人と関わらないけど、ケアっぽいことをしてケア成分を得るというか。代替食品によって成分はギリギリ摂れるから死にはしないんだけど、やっぱり調子が悪くなってくる。ニーチェはヴィーガンみたいだよね
伊予柑:ヴィーガンはニーチェですね
ぷろおご:ケアは欲するけど、人間からは得ませんみたいな
伊予柑:得られるんですか?
ぷろおご:ん?
伊予柑:ニーチェはケアを得られるのか?
ぷろおご:どうなんでしょうね
偏りを抱えると、人はどこかに向かわなければならないか?
伊予柑:ケアって動物性だと思うんです。つまり、社会生活とかはおいておいて、人間という動物の自然な状態を考えると、群れることや群れのなかでケアが行われることはすごく自然なことですよね。
たとえばサルだったら毛繕いコミュニケーションといって、意味もなく毛繕いをするっていうのがあって、それが必要だってことがわかっているんです。
それからよくいわれてるもので、愛着障害は子どものときにちゃんと親に抱きしめられなかったことが起因している。ってのがあります。え、抱いてもらわなかっただけじゃんみたいな話なんですけど、ケアの欠如は後々障ることがあるんですよね
居るのはつらいよ2でもありましたけど、東洋医学というのはたんに、フラットな状態に戻すだけなんですね。人間頑張ると頑張ったぶん、頭が疲れるとか、足が疲れるとか、偏っていきます。
その偏ったところをフラットな状態に戻すのが東洋医学で、これはケアの役割ですよね。ケア性を帯びる行為は東洋医学のほかにもあって、ある場合にはただ一緒にメシを食うこともケアになるんです。
ただ一緒にメシを食うだけだけど、それによってなんだかフラットな状態になっている気がする。とはいえ、なにがどうケア的な作用をもたらしたのかはわかりづらいんですけどね。
そういう偏った状態をフラットにしていこうというようなケアのあり方に対して、ニーチェは「頑張れよ」って言っているわけです
ぷろおご:超えてゆけ、だもんね
伊予柑:そう、超えてゆけなんで。
で、頑張らないやつらを緑の畜群とかってバカにして・・
ぷろおご:なるほどね、そういう解釈がひとつあるわけなんだ
不快なものを認識するためには、しばしば新しい価値観が役に立つ
伊予柑:「わたし、頑張らない!」ってなかなか言えないですよね
ぷろおご:僕は感覚的には半々ですね。わかる部分はわかるし、
伊予柑:ニーチェの?
ぷろおご:新しい価値観というか、今の自分を乗り超えることのおもしろさは感じますね。自分のなかにある今の軸には良いことと悪いことがあって、その二項対立がありますよね。
今採用している軸にあたる部分、そもそもの土台を変えていく作業はたのしいなっておもいますよ。たとえば、ニーチェが急に友達が大事だよね!って言ったら、それは超人だとおもう。
もうちょっと長生きしてたら、「やっぱオレ思ったけど、友達いたほうがよくない?畜群とかじゃないよね」ってなるほうがたのしいですよ。そういう遊びだとおもってて、新しい価値観っていう考え方はそういうひとつのケアになるというか。
その過程はすごくたのしいし、だからいまは、人と関わることは大切だなあっておもう
伊予柑:なるほど。
どこでニーチェ性から挫折というか、転向があったんですか?
ぷろおご:それはつまり、人と関わるうえで?
伊予柑:そう
ぷろおご:関わっていくなかでですかね。ケアされてることに気づいたんでしょうね
伊予柑:気づいたんだ
ぷろおご:人と会ってるほうが自分の体調とかいいですもん。整うというか。それによってなにか具体的に得ているわけじゃないんだけど、単純にいろんな人に会ってしゃべってることで、自分の状態とかがわかるから、そのぶんバランスがとりやすくなる。
日常的な偏りも人と関わることで、可視化されるんですよね。たとえば本を読んで影響を受けて頭のなかが偏ったりするじゃないですか。あるいは、体疲れてるから休もうとか。
そういう偏りが見えれば意識しながら生活できるから、整っていくじゃないですか。そういう意味でいうと、1000人ぐらい会って、そのへんからですね
伊予柑:1000人、なるほどね、すごい
ぷろおご:あれ、こっちのほうが調子いいぞ、みたいな感じですね
人と関わることは我々に、変化を受け入れるようはたらきかけるか?
伊予柑:ニーチェは大学のうちに罹患しておけってよく言われるんですよ
ぷろおご:ニーチェにハマるみたいな
伊予柑:高校時代はちいかわで、大学で「私とはなにか」みたいなことを考えるようになったときに一回、ニーチェを読んで「オレは超人だ!ヤー!」ってなって挫折して
「まあ、やっぱり中庸がいちばんだよね!」っておさまるのがよくて、30代でニーチェを読んじゃダメって言われてるんです
ぷろおご:たしかにそうですよね。大学を畜群のまま終えちゃうと、なにも持たないままですもんね
伊予柑:たんにケアをお互いしあうだけだとなにもうまれないんですよ
ぷろおご:畜群のままだと友達も形成しづらい状態ですよね。
まず人と関わるきっかけとして、なにかを提供したり、役に立ちあったり、社会に参画して、そうした関わりのなかで築かれる普遍的な関係性、あなたと私はただいるだけ、お茶を飲んでるだけ、の時間がケア的ですごく重要だとおもうんですよ。
「このあいだ助かったよ〜代わってくれて〜」とか、人が足りないときに、「あなたがきてくれてよかった〜」とか。逆に、「これは直したほうがいいよ」とか、そういうやりとりがなされる関係があって、癒されるのは一緒にいる時間みたいな
パッケージ100%ケアっていうのは逆にむずかしくて、それができるのは学生までじゃないですか。クラスが同じだからとか、講義が一緒だからとか、そういったものがどんどんなくなっていくなかでは、
一回なにかにかぶれて、ひとつ他の人とちがうものを持っていたほうが、とっかかりがあるというか、たしかに友達とか人と関わりやすくなることはあるとおもう。どっちがいいとは言わないけど、
伊予柑:つまり、DaiGoにかぶれていいのは大学生まで
素数さん:本を通してしかニーチェを知ることはできないですけど、本当のニーチェはちいかわだったかもしれないですよ。
ニーチェは最期おかしくなったときに鞭で叩かれている馬を見て、馬に駆け寄り、抱きしめながらかわいそうにかわいそうにって言ってたってエピソードがあるんですけど、あんだけバカにしていた虐げられてる動物に涙ぐんで抱きしめてしまうっていうのはニーチェの本性だったかもしれない・・・
ニーチェ 完
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