なぜ北極冒険家の私が書店をやるのか?その2
冒険研究所書店開設に向けて、着々と準備している。
ここ最近、会う人に「本屋やるんですよね?」「頑張ってくださいね」と言われることも多いのだが、同時にやや遠回しに「なんで?」ということも聞かれる。
聞かれる度に、言葉を尽くして説明する。そうすると、自分で喋った言葉に対して「そうか、そんなこと俺は思っていたのか」という発見もある。そう、案外イメージ先行で動いていると、言葉は後から遅れてやってくるものだ。
私も「冒険研究所書店」は完全にイメージ先行だ。ある日、ふと閃いた。
書店を始める理由は、これまでにも色々書いているが、また新たに気付いた言葉を書き残しておこうと思う。
一つは、冒険家と呼ばれる(というか自称だが)人たちのパターンとして、それなりに歳を重ねていった後の活動として「冒険学校」のようなものを始める人が多い。私を一番最初に北極に連れていってくれた大場満郎さんもそうだ。21年前の北磁極行は、大場さんが冒険学校を設立する最初の企画として行われたものだった。
自分のことを振り返ってみると、私は「冒険学校」という形はあまり興味がない。ただ、2012年からは夏休みに小学生と歩く「100マイルアドベンチャー」の旅を継続して行なっているし、一昨年は若者たちを率いてカナダ北極圏を歩く遠征をおこなった。これは、冒険学校的な活動とも言える。
今から100年ほど前、イギリス人極地探検家のアプスレイ・チェリー=ガラードは「探検とは知的情熱の身体的表現である」という名言を書き残している。
私が夏休みに小学生と歩くのも、若者たちと北極を歩くのも、身体的表現としての活動だ。自分自身が20年以上にわたって行なってきた冒険活動の「身体的体験」としては、それらでアウトプットをすでに行なっている。
冒険研究所書店を作ることは「知的体験」の醸成を図ろうとしているのだろう。
チェリー=ガラードの言葉によれば、身体的表現の前に知的情熱がまずある、ということになる。「知りたい」「見たい」「解き明かしたい」そんな知的情熱を果たすために、身体活動がやってくる。
まあ、どちらが先でどちらが後、ということもないのだが、車の両輪のように知的体験と身体的体験がうまくリンクしながら回ることで、健やかな人間の成長がある。
それからもう一つは、やはり私の中で「今までと全然違うこと」をやりたいという欲求が芽生えてきている、というのもある。
ひとところに安住することの危うさというか、知った気になって天狗になることへの危惧がある。知らないことを、知っている人のところに頭を下げて学びに行きたい。思えば、最近はそういう体験が減っていることに、密やかな危惧を抱いている。
その辺りは、また改めて詳しく書きたい。
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