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私と世界の応答と行動

昨日の渋沢さんとのトーク。終わった後に、反省しきりでした。

「私の範囲」という話が昨日は出ました。

終わった後に、その部分こそが話を掘り下げるべきポイントだと感じ、なぜトークの間に、そこを深めていかなかったんだ、と落ち込んでいます。

昨日の話の中にあった、忘れ物をした人を追いかけて、馬子が何日も宿場町を探して歩き回った話。

渋沢さんは、本当に「私の範囲」が広い方だと感じています。皆さんも感じていると思います。

だから、優しさも感じるし、厳しさも感じるし、懐の奥深さを感じる。

自分の子供が病気になったり怪我をすれば、誰しもが自分ごとのように心が痛む。

それが親兄弟、家族、親戚、と身近な人にまで及ぶこともある。

しかし、見知らぬ人にまで感じる共感性を、人間は持つ。その範囲が広く、深い人は「私の範囲」が広い人だと思います。

それが公益性と言われるものにもつながるのだと、昨日のお話を聞いていて思いました。

公益を重んじたら、自分の利益は我慢しなければいけないのか。そうではなく、私の範囲が広い人は、公の利益と私の利益の、重なる部分を多く持っている。公益が満たされれば、私も満たされる。

「私は、私と私の環境である」

オルテガが遺した有名な言葉が身に沁みます。

「もしこの環境を救わないなら、私をも救えない」

さらにそうオルテガが続けた言葉は「私の範囲」を語っています。

私の範囲を広げるためには何が必要なのか。まずは、確固とした私を確立することが大切なのだと思います。

地盤として私を作り上げ、その後に私を手放していく。

渋沢さんは「森と算盤」のあとがきで、こんな一文を書いています。

「私は、成人してから「何者でもないもの」になりたいと思ってきました」

これは、私の解釈は「私を手放していく」ということを、渋沢さんは目指してきたのではないだろうか、そう感じています。

関係性の中で生まれて、育った自分自身は確かにここにいるが、私は私とその環境であると、渋沢さんも仰っているのだと思います。

自分のことを振り返ると、極地冒険に出会う前の自分自身は、確固とした「私」がとても不安定な状態にいたように思います。しかし「私」の材料は、それまで育った環境、家族の愛情、さまざまな関係性によって用意されている。

しかし、その自分自身の構成要素が持つ本来的な意味にはまだ気付かず「私」を確立させようと模索していた。

やがて、極地という自然環境の中で「私」が強固に形成されていった。

自然と向き合いながら冒険を続けるうちに、自然に対して「私」の無力さを知ると、環境に適応すること、順応すること、意思の力を過信しないこと、人間の分をわきまえること、そのようなことを身に染みて感じるようになり、やがて自然の前に「私」を手放す習慣が付くようになっていった気がします。

昨日も、子供たちとの100マイルアドベンチャーの話を少し出しましたが、100マイルで大切にしている「感情を磨く」というのは「私」を確立させていくための、通過儀礼なようなものだと感じます。

事前の予定や計画に従うのではなく、その都度の感情に従うこと。

それは、子供たち自身の目の前に立ち現れてくる世界に対して、子供たちの感情がダイレクトに反応し、その感情を世界が受け止めてくれるという経験です。

子供たちは「私と私の環境」の間で、ダイレクトな応答を体験する。

世界は自分の感情に応答してくれるし、自分自身は世界からの呼びかけに応答する能力を持つことを知ります。

「応答する能力」というのは、responsibility(response + ability)のことで、日本語では「責任」と訳される。

目の前に立ち現れてくる世界に自分の心が応答し、共感し、そこに行動する意思を持つことが、責任を持つということ。

忘れ物をした人を追いかけた馬子は、責任意識でやっていたのか?忘れ物をした人がいて、その人が困っているであろうことが容易に想像され、それを届けてくれと頼まれた事実があり、忘れ物の路銀をいま自分が手にしているという現実がある、その世界に遭遇した時に、馬子は世界に対して応答して、行動しただけだと、私は思います。

馬子は、自分に至る世界の関係性を切ろうとはしなかった。世界を信じて、その関係性を引き継ぐ心を持っている。

「俺には関係ないよ」「自分には責任はないよ」そう馬子が言ったとしても、誰もそこに反論はできません。確かに正しい。

一方でそれは、世界との関係性の断絶宣言です。時には、関係性を断絶しなければいけない場面もありますが、かつての「世間」というのは、もっと世界と関係性を結んでいたはず。

渋沢さんの提言は、その関係性を取り戻そう、ということなのだと私は思っています。

自分たちが、それぞれにできるやり方で、世界との関係性を結び直すこと。

世界と自分がダイレクトに応答し、それに対して共感し、行動していくという責任。

渋沢栄一が、資本主義(合本主義)は「信用」と「責任」がベースになっていると考えたと言います。

渋沢寿一さんは、曽祖父である栄一の教えを心から尊敬していると感じます。

だからこそ、曽祖父のいう「信用」と「責任」とはなんなのか。それを21世紀の現代に、もう一度考え直そうとしている。

その結果として、新しい時代の資本主義が健全な形として、私たちの世界に立ち現れてくることを信じているのだと、私は思いました。

渋沢さんとのトークの視聴申し込みは、以下よりどうぞ。


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