一人の寂しさとは
6月になって社会も少しずつ再稼働を始め、人の動きも増えてきたようだ。しばらく自宅などに籠もりきりだった人も、久しぶりに友人や同僚に会えているのではないだろうか。
やはり、人間は人との直接的な触れ合いは何物にも変えられない感覚があるものだ。相手の目を見る、会話の間合いから感じる、手足の挙動に出る心理、やはりオンラインでは伝わらないものがあるのだろう。
私もこの3ヶ月ほどは、自宅と冒険研究所の往来くらいで、不意な人との出会いなどはほとんどなかった。そろそろ、友人たちとも会って飲みたいなぁと感じている。
と、そんな自分ではあるが、いざ北極や南極の冒険に出てしまえば、数十日間は一人きりで誰との接触も持たなくなる。
都会では、部屋に籠って一人になったとしても、アパートやマンションの壁を隔てて数メートル先には人がいる、ということが普通だ。だが、北極での冒険の最中は、自分を中心に半径数百km、時には半径1000kmくらいが無人ということにもなる。
北極の凍った海の氷の上を、自分の装備や食料を積み込んだソリを自力で引き、来る日も来る日も一人で歩き続ける。途中に人はいない。誰とも接触することはない。出会うのは、ホッキョクグマやアザラシなどの野生動物くらいだ。
そんな旅をもう20年続けてきた。その多くが「単独行」だった。
これまで、メディアの取材だったり、講演会などの場で自分の体験談を話す機会がたくさんあった。そんな時、取材であれば聞き手から様々なインタビューが行われ、講演会であれば聴衆の方々から質問を受ける。
そんな質問の中で多いものの一つとして「北極で一人きりって、寂しくないんですか?」というものだ。
「私だったら人と話せないなんて、我慢できない」とか「一人って、めちゃくちゃ心細いじゃないですか!」とか「何かあっても誰も助けてくれないじゃないですか」とかとか、様々な感想と共に「一人」というものを聞き手の方々が想像し、私に質問を投げかける。
そんな時、私は考える。「さて、自分は北極で一人の時に、寂しさを感じているのだろうか?」と。
結論を言ってしまうと、どうやら「寂しさ」みたいなものは感じていないようなのだ。それはなぜなのだろうか。
「単独」だが「孤独」じゃない
私は極地において「単独行」の冒険をしている。単独行とは、物理的に一人の状態を保ちながら冒険を行うということだ。「単独」とは、つまり物理的に一人だという状態を表す言葉に過ぎない。しかし、多くの人が私の単独行を見て「寂しさ」を感じるというのは、そこに「孤独」を感じ取るからだろう。
これは私の解釈でしかないのだが、「単独」というのは物理的な一人の状態であり、「孤独」というのは精神的な一人の状態なのではないかと思っている。
私は北極において「単独」の状態にありながらも「孤独」であるとはあまり感じない。物理的に遠く離れていても、人間は精神的な繋がりを感じることができる。私の家族や友人たち、冒険を応援してくれる仲間たちなどがいることを知っている。私の身を案じながらも、何も言わずに信頼して送り出してくれる人たちがいることを知っている。なんとなく、綺麗事のような話だが、実際に感じることがある。
冒険中のほとんどの場面では、自分以外の人のことが頭に思い浮かぶことはない。だが、長期にわたる冒険行の中では、ふとした瞬間に誰かの応援が力になることを感じることがある。
まあ、それも長年の経験で単独状態に慣れてきた、というのもある。また、単独で厳しい状況に陥っても、どうにかできるだけの力を付けて来たという裏付けが自分を支えている。
冒険を始めた若い頃を思い返すと、おそらく一人で北極を歩き出した時は確かに「孤独」を感じていたかもしれない。それは、これから先の不安感や恐怖感がそれを加速させていた。
未知は不安を招き、不安は想像を生み、想像は恐怖につながる。その連鎖を断ち切るのは、これまでの蓄積による自分自身の経験の裏付けだ。そうなるとやがて、「孤独」は愉しむものとなる。
誰にも知られずにその場にいる愉しみ。いま自分がどこで何をしていて、生きているのか死んでいるのかも、誰も知らない自由だ。物理的な繋がりを断ち切って、単独に身を置きながら孤独を愉しむ。
もしかすると、人間の密集する東京のど真ん中で、どう頑張っても物理的な「単独」の状態を作り出せないような場所に身を置きながら、「孤独」に苛まれている人もいるのではないだろうか。
私は、北極で物理的に一人であるよりも、東京で精神的に一人である方が、よほど人間にとっては辛く厳しい状態だと感じる。
だから、私には「孤独の乗り越え方」みたいなことは言う事ができない。「単独の受け入れ方」は人に説くことはできる。
光と影と色
都会の孤独感は、強烈な光源に遮られた濃い影のような部分なのだろう。都会には色がない。あるのは光の強さだけだ。
私が北海道の田舎に10年住んで思ったことがある。それは「自然には四季の全てに色があるが、都会にあるのは光の強さだけ」ということだった。自然の色は一人一人の個性も許容しながら、モザイク画のように全てを受け入れてくれる。しかし、都会の光は明確に影を作り出し、そこに闇が生まれる。
都会の光の強さを否定するつもりもないし、それがダメだと言っているつもりもないが、もし、その影の部分に生まれた暗闇で苦しむ人がいるのであれば、光の強さだけに目を向けるのではなく、「色」に目を向けてみてはどうだろうか。
natureとは都市の対概念としての「自然」という意味もあれば、人間の「本性」という意味もある。「自然」も「本性」も、どちらも色味に溢れている。まずは「自然」の色に触れながら、自分「本性」の色を確認しながら暗闇から抜け出るという道もあるのかもしれない。
私は北極での冒険や自然の中で、そんなことを感じてきた。
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