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機能と祈りの分断

12月27日(日)に、冒険クロストークvol.3として、ゲストに写真家の竹沢うるまさんをお呼びしてじっくりお話を伺う。

うるまさんは私と同じ43歳。

彼はこれまで、世界150カ国以上を旅し、様々な世界を見つめてきた。

イベント詳細は以下。ぜひご参加いただきたい。↓↓↓


12月12日に、冒険クロストークvol.2を開催し、澁澤寿一さんをお呼びして対談させていただいたのだが、とにかくまたこれが凄かった。

何が凄かったかは、見ていただいた方にしか分からないが、とにかく私の人生の中で最大のインパクトを受けたお話が聞けたと思っている。

今から聞きたいという方は、後日の録画視聴もできるのでこちらから。


澁澤さんとお話をする中で、私は「機能と祈り」という言葉を出した。

「機能」とは、言葉に尽くせる説明可能な認知的な事柄であり、「祈り」とは言葉には尽くせない、説明困難な非認知的な事柄だ。

例えば、家族という関係性の中で、お父さんとはどんな存在ですか?と問われた時に、「お父さんは働いて給料を得て家計を成立させてくれる人」というのは、お父さんの「機能」の話しである。

一方で、「お父さんは優しくて、大好きで、でも怒るとちょっと怖い人」というのは「祈り」の話しである。

「祈り」なんて言うと、宗教っぽいなどと思うかもしれないが、そう言うことではない。人が誰かを、もしくは何かに対して想いを寄せることや、喜びや悲しみといった人間が持つ心情、情緒の部分のことだ。

私が子供の頃、通っていた小学校の目の前に一軒の駄菓子屋があった。そこにはお店のお婆ちゃんがいたのだが、同じ小学校に通っていた私の父親が言うには「俺が子供の頃からあのお婆ちゃんはお婆ちゃんだったな」と語る。ずいぶん長いことお婆ちゃんやってるんだなと、当時思ったものだ。その駄菓子屋は、我々子供たちの溜まり場で、お金がなくても学校帰りにたむろして、時にお婆ちゃんに怒られたものだ。私は、30年以上前に怒られたその駄菓子屋のお婆ちゃんの顔が今でも忘れられない。

私が中学生くらいの時、その近くに地域で初めてのコンビニが開店した。当時珍しかったコンビニは流行り、私も中学生くらいの時にはよく買い物に行ったものだ。

コンビニはとても機能的だ。なんでもあるし、今ではATMや荷物の発送や受け取りもできて、当時から比べればはるかに便利になっている。

しかし、私の記憶の中には当時のコンビニの店員さんの顔は誰一人浮かんでこない。

機能的な存在は、便利で早くて合理的で、言うことない。

それに比べると、小学校の前にあった駄菓子屋は機能的でも合理的でも便利でもない。

それでも、私の心に残っている記憶は、駄菓子屋のお婆ちゃんなのだ。

私が駄菓子屋のお婆ちゃんに対して抱いている想い、これが「祈り」だ。

かつて、田舎の農村はとても煩わしい世界だった。プライバシーは存在しないし、集団生活なので個人プレーは認められない。村八分にでもされたら生きていくことは困難である。

それに嫌気をさして、多くの若者たちが故郷の田舎を後にして都会に出てきた。

高度経済成長などは、そんな人々の活力で成し遂げてきたものだろう。

日本の共同体は「協働共同体」である。中国の「血縁共同体」やヨーロッパの「宗教共同体」とも異なる。みんなで一緒に働くことで、村を支えてきたシステムが根付いている。高度経済成長時代の企業は、地方から出てきて寄る辺のない若者たちを企業という新しい村としての「協働共同体」に迎え入れることによって、一致団結したことで成功したのだと思う。

協働共同体では、みんなが一緒に働き、休む。春先に農村で田植えをするのも、農業機械も無い時代ではみんなで植えないと時間がかかってしまい、生育にばらつきが出てしまう。そうやって協力することが機能的であった。

しかし、同じ村人は時に煩わしく、愛憎入り乱れる関係性でもあっただろう。両隣の隣人は、一緒に田植えをしてくれる「機能的な人」だけでなく「煩わしい人」でもあった。ありがたさと煩わしさとは、表裏一体である。

ありがたさとは、機能。煩わしさとは、祈りだ。

近代の世界は、煩わしさとは悪いことであると考えてきた。それは人間にとってネガティブな感情であり、煩わしさを削減して、より便利に、より機能的にすることが良いことであると頑張ってきた。

煩わしさをなくし、便利で機能的な世界になったが、どこかで祈りが失われた世界になった。

機能と祈りは、ずっと昔は一つのものだったはずだ。農村で一緒の田植えをするのも、村の機能として行いながらも、機能を通して隣人への理解が深まり祈りが生まれる。機能は祈りで、祈りは機能だった。 

それがやがて、機能と祈りを分けて考えるようになった。

高度に進んだ資本主義によって、機能の車輪を大きくし、回転を上げてきた。一方の祈りの車輪は小さくし、宗教や芸術に祈りの部分を投げ入れて生活から分断した。

社会は機能的になったが、どこかで愛や赦しといった祈りを置き忘れてきた。寛容さを失い、それぞれがそれぞれの正しさを握りしめて、正義とは所有できるものであると考える。

澁澤さんのお話は、そこに鋭く楔を打ち込むものだった。心が動くお話だった。

次の竹沢うるまさんのお話は、それに続くものになるだろう。

チベット仏教圏を旅し、そこで感じてきた深い「祈り」を探りたいと思っている。

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