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8/11 Day11 芸術性と社会性は相反する要素なの?

こんばんは、どうも尾木です。

今夜は蒸し暑さを感じないためエアコン無しでも寝られそうな気候になっています。初秋のような穏やかな夜だ。と思案していたが、暦でも立秋(8/7)は過ぎていたのであながち間違ってはいなかったです。そう、ひとり合点をしながらエアコンを起動させました。

今日は昼過ぎから六本木の東京ミッドタウンホール「北斎づくし展」へ出かけていました。

と言うのも先日神保町の古本屋に「北斎づくし展」のポスターが掲載されていた。太宰治『富嶽百景』を読み終えたばかりの私としては「富士繋がりで行くしかない!」という経緯でその展覧会へ向かうことになったのです。

実は私、初めての六本木散策なのです。六本木散策というよりは東京ミッドタウン散策ですかね。六本木ヒルズはまた今度。

東京ミッドタウンはなんだかおリッチなショッピングモールでしたね。

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その内装と雰囲気、敷地内の人柄が総じて気品があって、シンガポールやハワイの都市ショッピングモールを連想させられました。入居している店舗はどこも独自の世界を展開していて、通路と店舗の間の入り口で国境のようにキッパリと断絶されていた。それは小さなディズニーでした。

一見さんお断りのオーラを勝手に受信してしまい、萎縮していた。また、通路から見ているだけでもそれぞれの店舗の社風やコンセプト、配色が様々で見ていて飽きなかった。まるで絵画を眺めているようだった。

それは芳香漂わせたクリーム色を基調とした爽やかな雑貨店、棚や掛けられた服の角度までピシッと統一された黒主体のシャープな男性服店、和をベースとして、仄かな暖色で照らされた駄菓子屋さんのような内装をした食器屋、扇形に陳列されたヒールと、明らかに少ない品数からハイブランドを漂わせる履物店など。

ともあれ、爛々とした店舗群に目を奪われつつ目的の会場まで到着しました。

「北斎づくし展」については正直あまり覚えていません。ショッピングモールの印象が大きすぎました。

教育熱心なお母様に連れられた勉強を生き甲斐としていそうな小学生に、堅物そうな一人のご老人、体の大きめな会話の絶えない奥様方、奇抜な配色の羽織り物を纏ってピアスをした男学生人一倍熱心に見学するインド系の顔立ちをした男子。

今思い出そうとしても展示物より、展覧客しか思い出せない。

ただ、1つ太宰治『富嶽百景』で語られた、「北斎にいたっては、その(富士の)頂角、ほとんど三十度くらい」は真実であった。もう、とんがっていた。「おそらく北斎は富士を描きたかった訳ではなく、富士の象徴性と迫力、存在感を利用して、他の風景を中心に富士と対比して描きたかったのだろう。」そう考察しながら富嶽三十六景を見物していた。

私が北斎の作品で感心したのは、精密さ、そして多様さだ。彼の作品は多岐にわたる。漫画、浮世絵、スケッチ、春画。描ける分野はほとんど手を出しているだろう。さらに書いたものも多様で、動物や植物、街の人々、風景、武器、物語、妖怪まで。また、構図と表現が精密であった。例えば仏閣は壮大さを表現するためわざと全体が収まらないように描いている。

展示物を見て回るというのは疲れる。特に少しずつ、進むあのもどかしさ。展示物を一読して一歩、また似たような展示物に目を通してまた一歩と。散歩よりよっぽど体力を消耗する。どうやら落ち着きがないらしい。私は鮪だったようだ。

そんなわけで、牛歩見学による疲労困憊で「北斎づくし展」を後にした。また長野県の岩松院で会おう。岩松院には北斎によって描かれた天井画を見に行きたいと思っている。

そんなこんなで今日も2時間弱日記に費やしているのでこの辺で終えようと思う。

ではまた明日。

実はここだけの話、北斎づくし展の見学にはもう一つ要因がありまして。

それはFGOの葛飾北斎が推しだということです。(仲間募集)その話を終始言うべきか言うまいか懊悩した結果、最後にぼそっと言う形にして退散することにしました。

おやすみなさい。

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