桂川で発掘された江戸初期の船
公式に発表されたのでここでも個人的に思ったことを書き記す。
和船作りに携わる実践者という立場で、意見を聞かせてほしいということで、2024年2月と4月に上の記事の発掘現場に招いて頂いた。
こちらとしては願ったり叶ったりで、実物を目にして心底感動した。
この遺跡から出土したものは、船そのものというよりは、廃棄船の部材を再利用した護岸の土留めということのようだ。そういうものであるから、完全な船の形で出土したのではない。とは言っても、どの程度の大きさか、またどのような構造の船かをおおよそ推察するには十分な程度には姿を保っている。
自分が見たのはカワラやシキと呼ばれる船底部分で、船底の幅を確保するため複数の板が接ぎ合わされ、船首部分は先の幅を狭くした三角形の板を胴部の船底に乗せるような接合されている。これは過去の記事で紹介した巨椋池の漁船に似ており、淀川水系の船によく見られる。
https://note.com/ogawatomohiko/n/n5cda1c3ae17d#vYx31
1623年の淀城築城と城下町整備と同時の護岸工事と考えられるとのことなので、船体自体は当然これ以前に作られたものということになる。
構造船の遺物は珍しい
和船研究では、構造を「刳舟」「準構造船」「構造船」の三つに大きく分類する。少し乱暴だが、このようなイメージ。
「刳舟」ー大きな丸太を刳りぬいて作られる船。丸木舟。
「準構造船」ー船体部分が刳り船のように、木の塊を彫刻、整形されており、また他の一部が板材で構成された船。
「構造船」ー船体が板材の組み合わせで作られた船。
これらの船が出現した順序もこのとおりで、「刳舟」が最も古く、次に「準構造船」、そして「構造船」が生み出された。念のため言っておくと、時代が下がるからと言って構造船が先進的な、洗練された船というわけではない。構造船が作られるようになってからも刳舟は作られ続けた。
桂川西岸で発掘された船の遺物は「構造船」で、「構造船」が作られるようになったのは室町時代あたりからと言われる。
そう言われるのだが、これを裏付ける「モノ」はなく、絵巻物に描かれた船の姿や文字での記録などからそう推測される、ということのようだ。
意外にも、刳舟のほうが出土品としての物証は多い。縄文時代の遺跡からも船体や部分が発掘されている。
遺物としての構造船だと、物流を支え富を生んだ千石船でさえ、写真や模型、絵馬は数多く残されているのに実物やその部分はほとんど残されていない。
傷み、船としての機能を失っても板材への転用やそれさえ無理でも薪になるまで使われたということでもあるだろうし、生活の道具として、単なる実用品として扱われたということでもあるのだろう。
そういったことで、和船を作るようになってから、その作り方や道具は室町時代からあまり変わっていないのだということはよく聞いていた。今回この発掘現場で見ることができた出土品は見事にこのことを証明するもので、感動してしまった。
保存されてきた技術
感動と今書いたが、感動したのはこれが17世紀以前のものだということを改めて思った時だ。実際目の当たりにした時はそれほど昔のものとは思えなかった。木材の腐朽し、縫い釘は錆びてはいたが、縫い釘の形、プロポーション、縫い釘を通すために板に彫られた「ガケ」と呼ばれる溝も、寸法、ピッチに至るまで自分が教わってやっている方法と大差なく、まったく同じではないにせよ、その違いは地域差からくるものなのだろうと思う程、まるでちょっと前に引退した、伏見あたりの熟練船大工の仕事のように近しいものに錯覚してしまう程に生々しいものだった。300年以上も前のものなのに。
和船を作るようになり、和船の歴史も自分なりに勉強する中で、板で作る構造船の発明は不思議に思う。
縦挽き鋸と台鉋の出現により板を作るのが容易になり、そして板を組み合わせて作る構造船が生まれた、ということなのだが、「彫刻して器≒船を作る」から「板を組み合わせて器≒船を作る」は、作業としてはすんなりと移行できないような気がする。発明というか、飛躍が必要ではなかったか。
この桂川から出土した船はその疑問には答えてはくれないが、確かに、早々に板を組み合わせた船作りは確立されたし、ずーっと変わらなかったことを証明するものではある。
自分にとっては先達の仕事を伝えてくれる貴重な資料である。構造船の出土品としては類を見ない。また、内水面最大級の港であった伏見港とも無関係ではないのだろうから、京都の成り立ちにおいても重要な資料だろう。
これがデンマークあたりの出来事なら今回発掘された遺物で博物館を作ってしまいそうなものだ。
大変な発見だと思うのだが、これが重要文化財指定など受けることはないのだろうか。
今回出土した遺物はどれも船の部分で、これらからはどのような船だったのかは完全に明らかに出来ないが、今回発掘された部分を新たに復元でもしておけたら、いつか京都の水運を支えた船の姿を明らかにできる時がくるかも知れないと思う。
今現在和船は差し迫って必要なものではないかも知れないが、長い歴史の中で人の繁栄を支えたものであるし、和船に限ったことではないが、これ自体長い年月の中で獲得した財産でもあるのだから、壮大なものとして受け止めていたいと常々思っている。
遺構についての詳細は京都市埋蔵文化財研究所による公式報道資料をご覧ください。
下記リンクの淀水垂大下津町遺跡というのが本記事で取り上げたものです。