どうも、オガワヒカリです。(自己紹介とサイトマップを添えて)
はじめに。
どうも、おはこんばんちは。オガワヒカリです。
急に思い立って、朝からパソコンをカタカタ打っております。
自己紹介は以前書きましたが、ちょこっとアップデートします。
オガワヒカリって結局ナニモノ?
自身のホームページにはさらっと書いておりますが、あまり詳しく書いておりません。
その理由として「フリーランス時代に芸名(旧ペンネーム)を使って活動していてブログもあるのに、削除したくてもブログにアクセスできなくなったから」というのが正しいです。パスワードもメールアドレスもわからない……。
そして「一度リセットしたい」という思いもあり、過去を捨てました。
だけど捨てきれず、ホームページに書いてあるキャリアはほとんど芸名時代のものです(改めまして~の記事参照)。
幼少期(保育所~高校まで)
大阪府東大阪市の端っこで生まれ、育ちは奈良県の某所。
目立ちたがり屋の気質か、幼稚園までの夢は「歌って踊れるアイドルスター」。時代が時代なら、某アイドルのオーディションを受けまくっていたことでしょう。
「なんでもやりたい」精神は保育所時代に培われたもの。
それまでは「地味田おとなし子」でして、同級生も友達も近所におらず可哀想に思った両親が私を保育所へ入所させました。そして見事、保育所デビューをかますのです。
しかし虚弱体質で、保育所ならびに幼稚園の連絡帳――出席するとシールを貼ってもらえて、皆勤賞なら大きなシールが貼られる――はシールをすべて埋め尽くすことができない子供でした。すーぐ熱出すんだから、まったく。
あと、すぐ男子にキスを求めていたそうです。素っ裸で走りながらキスを求めるって大人でもなかなかいないぞ、オガワ。
同窓会でそれを笑いながら幼馴染たちに暴露された時、マジで穴があったら入りたい状態でした。本人に記憶がないから尚更。
小学2年生までは虚弱体質ながらも平和に暮らし、楽しい生活を送っていたのですが……やってきました「出る杭は打たれる」タイム。
小学3年生から実に短大1年生まで「いじめ」という行為に悩まされます。
ま、中学ぐらいからは色々と考えて行動していたので大したダメージではありませんがNE☆
小学校時代が暗黒すぎるのに、先輩から暴力もふるわれていたのに、運動会実行委員とか修学旅行委員とか給食委員長とかやってるの。メンタル強いのか弱いのか分かりません。
この暗黒時代と暴力で支配気味の両親により、私の性格は一気にひん曲がりました。非行に走る勇気もなかったので「もうひとりの自分」の仮面をつけるようになったのはこの頃から。いい子にもなれない、悪い子にもなれない。
そんな私にも夢がありました。
少女漫画家です。妄想族になったのも、今小説を書いているのも、この夢が原点です。
でも愛読していてデビューしたかった雑誌が廃刊になり、高校2年生の時に筆を折りました。授業中、一番前の席で突っ伏して号泣したもんね。M先生、あの時授業放棄して泣いていたのに怒らないでいてくれてありがとう。
中学~高校時代
目立ちたがり屋はどこまでも。中学では美術部に入ろうかと思っていたのに、気が付けば演劇部にいました。なんで?
高校も演劇部で選びました。なんで?
この演劇部という世界で、初めて「書く」ことに触れたのです。
演じるのも楽しかったけれど、締め切りに追われる日々も楽しかった(堂々のM宣言)。
脚本と舞台監督を経験したときに指名制で配役を決めたのですが、主役に抜擢した後輩が県内で一番演技うまいで賞(正式名称忘れたごめん)を受賞した時は我がことのように喜びました。
そのおかげか、今読んでも訳が分からない脚本が奈良県代表作品に。なんで?
人生においてすごくすごく大切なひとたちに出逢ったのも、この頃。
今も連絡を取り合う、本当に宝物です。
大学受験~短大時代
演劇が好きになり、芸大か芸術学部の道を考えた高校3年生の夏、転機が訪れました。
「私、演劇続けていけるのだろうか……」
自分で気づいていたのです。演じるのは下手くそであると。舞台女優に憧れはあったけれど、4年も続けられるのだろうか。
その不安を進路指導の先生に打ち明けると
「芸の道は厳しい。今その状態で4年間続けられるか分からないのなら、一旦考え直せ」
と進路を白紙にするという、今思えばチャレンジャーなことをしました。
やりたいことはたくさんある、でも全部を叶える大学なんてない。
(当時の興味は言語学、マスコミ、地理、心理学、演劇などでした)
溜息を吐きながら進路指導室を出て、廊下の長机に並べられたお持ち帰り自由の大学案内のパンフレットたちの中に、関西ではそこそこの知名度と人気のある女子大のパンフレットが一冊だけ置かれていました。
女子大は避けて通りたかったのですが(過去のいじめのせい)、食わず嫌いも良くないなとパンフレットを立ち読み。
……あ、ここいいかも。
これが母校になる短大との出逢いでした。
(うちの母校は短期大学部がありました)
短大を選んだ理由は「早く家を出て働いて夢を叶えたい」と思ったから。
その頃の夢は、なんと作詞家。漫画家からの方向転換すごい。
コトバの世界に触れるうちに、大好きな音楽と、大好きなコトバを掛け合わせた作詞という世界に魅了されたのです。
夢、コロコロ変わっております。
まだ小説家という夢は抱いておりません、というか小説を書いておりません。
短大では主に日本語を学んでおりました。
日本文学は必須科目しかやっていないです。実は日本文学が苦手だったのです……。ひねくれてる。
日本語を多角的にアプローチした2年間、人生で一番勉強したかも。
会社員時代
就職超氷河期に就職活動をしていた私にとって、就職活動は「めちゃくちゃ大変だったけれど楽しかった」思い出があります。
何より内定をもらった会社で同期になった人たちが面白すぎた!
内定者掲示板という内定者と人事しか見れない場所で、毎日のように日記を書いていたら(暇人)全国に自分の名前を宣伝することとなり、入社式のあとに
「ファンです!」
と言われたのは、ある意味面白おかしい思い出。
SEとして入社して最初の一ヶ月は地獄の研修が待っていて、研修担当とそりが合わず、毎日てっぺん越え。
研修最終日の打ち上げで、壇上にて堂々と研修担当に喧嘩を売ったのは若さゆえ。ええ、昔は曲がったことがダイキライな喧嘩っ早いヤツだったんです……。
配属されたはいいけれど、新卒をとらない部署だったので新人教育が正直アレで、業務とは全く関係ない事務仕事ばかりしておりました。
そこで初めて身体に異変を感じました。
一人暮らしの家で4日間倒れていたりとか(会社の人が生存確認にきた)。
原因不明の熱が続いたりとか。
まさかの虚弱体質再びターン?
モチベーションも下がり、一時は退職を考えましたが部署異動で何とか辞めずに済みました。
フリーランスと病気時代
「会社を辞めよう」
そう決めたのは年が明けてからでした。
何も決まっていないけれど、私の時間を私のために使いたくて。
そして始まったフリーランス時代。
勿論最初はそれだけで食べていけないので、様々なアルバイトをかけもちしながら、作詞家の夢に向かって過ごしていました。
そんなある日。
父親の一言で私の世界が崩壊しました。これはまた追々書いていければ。
うつ病にパニック障害を発症。
でも、そのうつ病は発症時期が中学という診断でした。
だから生きづらかったのか……と納得。
それでも歩みを止めたくなかった私は、アルバイトを減らし、治療しながら先の見えない闘病生活を送っていました。
しかし、なかなか完解しない。
おかしいなと気が付いて、主治医に更に検査をお願いしたのはうつ病発症から10年経った頃でしょうか。
双極性障害Ⅱ型。
診断名が変わりました。簡単に言うと、軽い躁状態と長いうつ状態を繰り返す病気だったのです。
最近になって学習障害(LD)もあったことが発覚し、新しいお薬を飲むことに。
障害者手帳を持っていますが、今はお薬が合っているのか全く不自由なく過ごしています。ありがたいことです。
病気の間も活動はしていて、作詞でも某大手レコード会社のオーディションを通過し、コンペに参加したこともあります。
モデルもしておりました。
ナレーションスクールに2年在籍し、ナレーションのお仕事や司会のお仕事もしておりました。
オガワヒカリ≒恋愛のひと。
よく母親に言われるのが「アンタは経験豊富」。
そうでもないと思うのですが、オガワにとって恋愛は生きる上で切っても切り離せないものだったりします。
恋愛の失敗や恋愛の成就、本当に色々と学ぶことができました。
「ひとのきもちってナマモノだからね」と当時中学生だった私が言っております。
学生時代
初恋は中学1年生。2つ年上の生徒会の人でした。
振られましたが、文通相手として長期間やりとり。
今も連絡を取り合う大切な先輩です。
初めての彼氏は中学3年生の時、同級生と両想いに。
今は連絡先が分からないので、どうしているのかな。
基本的に片思い推進委員会。
告白したら振られるジンクスがありました。多分今もそんな気がしなくもないです。
「じゃあ告白してもらえるように仕向けよう」
そう気が付いたのは高校1年生の時でした。
そこからは……はい。戦略の勝利です。
高校時代までは結構真面目というかプラトニックだったのですが、短大時代からなんだかなーっていう恋愛も経験しました。この頃から芸能関係のお仕事をしている方との交流や恋愛が増えました。何故。
社会人時代
コロコロ恋人が変わりました。
自分の精神状態と一緒ですね☆(☆じゃねえ)
でも恋人に依存というのはあまりなく、かといって自立しているわけでもなく。
私の病気を全部受け止めてくれる人を探していたのかもしれません。
大好きだった男の子がいたのですが、結婚という未来の二文字は見えませんでした。何故だろう。
結婚
私は24歳の時に一度婚約破棄を経験しております。
あの時結婚していても、きっと長続きしなかったでしょう。
相手の方には申し訳ないことをしましたが、どこかで幸せになっていることをいつも願っています。
そして出逢ったのが菩薩です。
離婚危機もありましたが(これもナイーブな問題なので、追々……)基本的に仲良しです。良き理解者であり相棒であり親友であり、夫。それが菩薩。
菩薩に訊いてみました、何故オガワと結婚したのか。
「素敵な未来を共に歩んでみたいと思ったから」
あ、今聞きました。100点満点の回答だと思います。はいノロケー。
オガワヒカリと小説と。
オガワヒカリとして小説を書き始めたのが2008年の春でした。ちょうどフリーランスを辞めた頃です。
2010年に大事件があり(ストーカー的なやーつ)、マジで逃亡しなくてはいけなくなり一度小説ブログを削除、オガワヒカリは消えました。
その後、別名義(芸名)で小説を書き始めたのが2015年。しかし長続きせず1年ちょっとでまた消滅。
そして2018年、緒川ヒカリとして活動再開。某投稿サイトで頑張っていたのですが、モチベーションの低下により2020年、活動休止。
2023年にカタカタオガワに戻し、少しずつリハビリがてらの短編小説を書き、今年に入って長編小説にチャレンジしました。
なので、物書きとしてのキャリアは決して長いとは言えません。
ジャンルは基本的に「青春」が多く、高校生を描くことが好きです。
なので今回創作大賞2024に応募した2作品は大人を主人公にしているので、チャレンジではありました。
今後も書いていきたい作品がたくさんあるので、色々試行錯誤しながら自分だけのスタイルを築けたらいいなと思っております。
オガワヒカリを知りたければこれを読め!
エラソーなタイトルですが、ピックアップしてみます。
■長編小説の部「バンビィガール」「恋愛小説、書けません。」「Past Love」
今回創作大賞2024で応募した2作品は、どちらも大切なものとなっております。
「Past Love」は寝る前に急に降ってきたネタでダダダっと書いたものですが、好意的なご感想が多かった作品です。
■短編小説の部「ガナッシュ・ワークス」「ありがとうの歌を唄いましょう」
「ガナッシュ・ワークス」は長編にしたいなと思っている職場恋愛のお話です。「ありがとうの歌を唄いましょう」は某投稿サイトでも公開しているものです。
■質問の部
色んな質問に答えております。答えるの大好きです。
■日記の部
レポートは命。10月にも超大型レポートをお届けする予定です。
他人様の日記って読むときワクワクしませんか? オガワだけ?
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