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書籍【フキダシ論~マンガの声と身体】読了

https://booklog.jp/users/ogawakoichi/archives/1/B0C6SMGXMR

◎タイトル:フキダシ論~マンガの声と身体
◎著者: 細馬宏通
◎出版社:青土社


本書はマンガの中でも「フキダシ」に特化した考察となっている。考えれば考えるほど、マンガは不思議だ。
日本という東方の端の国に、なぜこのような文化が定着し、独自に進化していったのだろう。
その思いを馳せるだけで、非常に感慨深い。
マンガの歴史に関する考察本も、今後探してみようと思うが、数多く出ていそうだ。
私はすでに50代であるが、マンガについては同世代の中では沢山読んでいる方だと思う。
それこそ小学生から大学生までは、貪るように読んでいた。
小説も並行して読んでいたため、いわゆる読書好きの部類に入るのだが、青春時代にマンガに明け暮れたというのは、私世代にとっては共通体験ではないだろうか。
私を含めて、ほとんどの日本人にとっては、マンガを読むことに躊躇することはないだろう。
しかし、海外の方で、今まで全くマンガに触れてこなかった人は、それが日本語か英語かに関わらず、読むのに苦労するようなのだ。
我々日本人には、暗黙の特殊能力が備わっているようなのだが、その一つがフキダシにも表れているのだろう。
こうして考察本を読んでみると、非常に面白い。
今まで全く意識していなかったが、例えば登場人物が描かれていない、あるコマがあったとして、そこにフキダシのセリフだけが描かれていても、なぜか「登場人物の誰がどんな感情で喋っているか」について、前後のコマの流れから理解できてしまう。
もちろん、作者が意図的に表現している訳であるが、その演出手法は非常に日本的だ。
映画の1シーンでも似たような描き方をされる場合が多くある。
映画の場合は当然フキダシは無いのだが、登場人物が画面に登場していないにも関わらず、イメージの映像が写し出されていて、そこに台詞やナレーションが被さっている場合。
その1シーンであっても、我々は違和感なく前後の文脈から映像の意図を認識できてしまう。
観る者や読者の想像力に委ねる表現と言えるだろうが、これがなぜ上手に扱えるのか。
日本人だけが突出して「想像力が豊か」ということもないだろうと思う。
当然、発信する側と受信する側が、共通の認識を持っているからこそ成立している話だ。
考えてみると不思議な感覚だ。
この「発信する側が足りないものを、受信側の想像力で補完する」というのはアニメ-ションでも似たような事例がある。
アメリカでは、映画フィルム1秒間24コマに合わせて、動く画を24枚用意し、1枚1枚撮影して作っていた。
日本では、1秒間で動く画を8枚に減らし、さらに「喋る口だけ画を変え、他は動かさない」などで、工夫して制作したという話を聞いたことがある。
日本のかつてのアニメが「滑らかに動かなくて紙芝居のようだ」と揶揄されたのはそのためであるが、これは予算も時間も限られていたのが根本の原因だ。
そんな状況でも諦めずに何とか形にしようというところが日本人らしいと思う。
この話は実は根が深く、日本の劣悪なアニメ業界の元凶を作ったのが、マンガの神様である手塚治虫氏とされていたりするのは皮肉なものだが、いずれにしても、この引き算的な逆転の発想を許容する日本人の感覚は本当に面白い。
紙芝居と言われながらも、むしろ個性的な設定やストーリーで魅せるという、独自の進化をしていきながら、当時の世界中の子供たちを魅了していった。(私もその1人だ)
この省略する感覚とは、どこから生まれたのだろうか。
その状態であっても成立する世界観。
足りない部分を、受ける側の想像力で補うという、相互の関係性。
「日本はそもそも資源がないから」などと言っても、それは外国と比べられるようになった近現代の話であって、江戸時代くらいまでは、資源が足りないという感覚すらも無かったのではないか。
そもそも「資源が足りない」というのは、国家レベルで考えることで、国民1人1人のレベルであれば、「欲しい物(資源)」が、すぐに手に入る状態にあれば、それは満ち足りていると言えるだろう。
そういう観点で言えば、日本は水や食べ物に困ることが少なく、生きていく上では必要十分な資源があったとも解釈できる。
この段階でも、あれこれ欲張らずに「足るを知る」という感覚が身に付いているのは、逆に言えば「充分に資源があった」とも言えるのではないだろうか。
むしろ豊かになるよりも、「品」の方が大事だとされる価値観が形成されていったのは、世界的に見ても非常に稀有だ。
そんな価値観が、「少ないもので充分」という感覚を生み出したのは間違いない。
そう考えて見回してみると、物質的には足りないにも関わらず、充分に満ち足りているように感じるものというのは、意外と多い。
例えば、五七五という限られた字句の中で表現する俳句も、制限の中で非常に満ち満ちている。
茶の湯なども相当に制限された環境の中で、むしろ心を贅沢にして楽しめるものだ。
枯山水だって、水がないのに、川の流れを表現するという、とんでもないものを作り上げた。
浮世絵も、特徴を大胆に見せる代わりに、不要なところをこれまた大胆に簡略化して表現した。
どうもこれらの表現の感覚は、世界中を探しても、日本にしかないように思えるのだ。
日本の風土が関係していると思うのだが、なぜか日本の田舎の景色を見ていると、海外の田舎の景色と全く違うように感じてしまう。
壮大な風景という感覚からは程遠いにも関わらず、その景色の中に懐かしさを見つけたり、さらに「もののあはれ」を見出したり、「侘び寂び」に浸ったりできるのは何故だろうか。
なぜか全てにおいて共通項があるように感じてしまうのは、偶然ではないように感じるのだ。
中国や韓国など、これだけ距離的に近い国と比較しても、日本の特異性が突出しているのはなぜだろうかと考えてしまう。
フキダシの表現一つとっても、日本という国の積み重ねた文化が反映されているのだから、なんと素敵なことじゃないか。
今現在でも、新しいマンガ表現、フキダシの活用は生み出されているかもしれないが、今後も益々進化していくと考えると、楽しみでしょうがない。
貴重な文化を次世代に継承していくためにも、こうして理論化して研究していくことは、大切なことだと思った。
(2024/10/25金)


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