冷蔵庫でお年玉を冷やす理由

 二十五歳である。年だけ見れば、疑いようもない大人である。
 しかしお年玉をもらった。
 さすがにもういらないよ、とは言ってみたものの、
「まだ(博士課程の)学生じゃないか」
 と言ってくれる親戚が数人いた。
 包み隠さずいえば、お年玉をもらった私は有頂天だった。もう数センチおばあちゃん家の天井が低ければ、きっと穴を開けていたかもしれない。天井修理で早々にポチ袋の封を切らざるを得なかった、などというあまりにも起承転結がキマりすぎた四コマ時代のサザエさんのような正月は、幸運にも避けられた。

 年が明けて久しぶりに大学へ行った。
 実験室の扉を開くと後輩の四年生がいた。彼女は新年も早々というのに熱心に実験をしていた。
 お年玉景気に浮かれていた私は開口一番、
「お年玉もらった?」
 と訊ねたが、ちょうどそのとき何かの実験機器が唸るような音を上げて稼働していたために、普段から小さくなりがちな私の声は彼女の耳には届かなかった。
「へ?」訊き返された。
「お年玉もらった?」
「はい?」また訊き返された。
「お年玉もらったぁ?」声を張る。
 この辺りから、どうして自分はこんなくだらないことを一生懸命訊こうとしているのだろうと、バカバカしくなってきたが、一度訊いてしまった手前、後に引くことは|憚(はばか)られた。
 話は逸れるが、私は声が小さいために「おはようございます」と挨拶をしただけで「へ?」と返されることがある。挨拶以外の言葉であれば、そこで素直に言い直せばよいのだが、挨拶となると、もう一度言う側にも些かの抵抗はあるし、何より言われた側にも、訊き直した言葉がただの挨拶だったのかと気づかされたときの「しょーもなさ」と「この微妙な空気をどうしようか」という刹那的な心遣いが一度に襲って来るというデメリットがある。
 この気まずさを解消するために、私は挨拶を訊き返された場合には、挨拶以外の言葉を適当に見繕った方がよいのでは、というほとんど無意味な気を起こしてしまうことがある。ただそこでテキトーに言葉を作り過ぎて、最初に「おはようございます」と言ったはずなのに、言い直した際には「なんで、いきなりこんなに寒くなったんですかね、今年は秋がなかったみたいでしたね」などと明らかに字数が合わないことを口走って、相手に変な顔をされたことは一度や二度ではない。要するにもっと声を張れという話ではあるが、癖はなかなか直らない。
 ここで「お年玉もらった?」が後輩に中々聞き取ってもらえなかった話に戻るが、開き直ってしまえば後輩と喋ったときに実験機器が大きな唸り音を上げていたこともよくなかったと言える。しかし今にして思えば、きっとその機器は実験中の彼女が動かしていたものであり、それはさながら非常に利口な忠犬が、飼い主に近づいて来る不届き者に対して、強い嫌悪と警戒で「それ以上近づくな」と言わんばかりに唸り立てているようなものだったと思う。そんな回りくどい比喩を無意識に発想してしまったことも、思えば自然なことで、あのときの後輩はねんごろにも実験をしていたというのに、そこにのうのうと現れた先輩は、新年の挨拶もろくにせずに、下世話の極みともいえるお金の話をなんの脈絡もなく持ち出しては、終始ぼそぼそと喋る醜態ぶりであった。
 三回目の「お年玉もらった?」でようやく後輩は私の言葉を聞き取った。すると彼女は控えめな笑みを浮かべながら答えた。
「はい、恥ずかしながらもらいました」
 恥ずかし、ながら……?
 ――やめてくれ。
 心底思った。
 二十二歳の彼女にとってお年玉をもらうことは、他人に言い憚かられる恥ずべきことのようらしい。しかしこちとら二十五歳で「天井を壊しかけた!」などと愚妄を弄んでは喜んでいる始末だ(そもそも誰もがアクセスできるこのウェブページ上で、いま堂々とお年玉をもらったことを公言してもいる)。
 私は彼女の慎ましい言葉選びを聞き、途端に浮かれていた自分を深く恥じ入り「そうか、そうか。よかったねえ」と適当に会話を切り上げると、逃げるようにその場を立ち去った。あれはメロスばりの赤面ものだった。
 かのメロスは、たくさんたくさん走ったことで王との約束を無事果たし、ラストシーンで恥ずかしいことをして(不祥事を起こして)、顔を赤らめるに至った。『走れメロス』の物語は、彼の赤面シーンで終わっているが、今回身をもって赤面シーンを演じたことで、恐らくメロスが心底走り出したいと思った瞬間は、実はあの物語が終わったその先にあったのではないかという妙な考えが浮かんだ。2025年初の気づきだった。私は「もっとまじめに○○をしていれば」という構文で過去を悔恨する大人を子供のときからずっと見てきた。だから子供なりにも、どんなことも一生懸命がんばろと思って生きてきたわけだが、結局「もっとまじめに国語の授業を受けていれば、こんな恥辱に苛まれることはなかったかもしれない」と臍を噛むこととなった。果たしてこれはどこで気づけるタイミングがあったのだろう。
 そんなことを考えていたら『走れメロス』が懐かしくなって、物語の内容を思い返してみたのだが、確かメロス青年は走っている最中にちゃっかり犬を蹴り飛ばしてもいる。彼の不祥事はどれも救いようがないという話はここではさておき、この犬の件も犬を想起した今回の実験機器との妙な符合に思える。後輩との一件以来、私は犬あるいは犬みたいな実験機器を見る度に、これはもしかして近い将来自分に起きる赤面シーンのフラグではないかと、過剰に身を案ずるようになった。
 いまこの文章は大学の中央図書館で書いているが、研究室からここに来る途中で出会った散歩中の犬たちに、私はお年玉をあげたくなった。頼むからこれで許してください、と。
 告白すれば二、三日前には下宿の冷蔵庫の唸り音にも過敏に反応してしまった。なんとかこの心のざわめきを抑えないといけないと思い、私は冷蔵庫にお年玉を与えることにした。
 ゆえに、いま私の家の冷蔵庫ではお年玉がよく冷えている。 

  

いいなと思ったら応援しよう!