暗黒報道53第七章 戦争勃発
■日本海海戦
「これって、本当に起きていることなの。ディープフェイクじゃないの?」。伊藤楓が悲鳴をあげた。
テレビをジャックした会見で下河原総理は、「北方独国」のフリゲート艦が海上保安庁の巡視船にミサイル攻撃を仕掛けてきたことを発表した。巡視船が損傷した映像がテレビで流された。
「いや、これは現実だ。巡視船が攻撃を受けた映像はリアルすぎる」。井上諒はひと呼吸おいて興奮気味に言った。
「日本で戦争が始まろうとしているんだ」
テレビ画面に、下河原総理が再び現れた。
「非常事態宣言を発令します。全国民は安全な場所へ避難をしながら、政府からの発表を注視するように」
それだけ言うと、画面から消えた。代わって、官房長官が現れ、説明を始めた。
衝突は突発的に起きた。「北方独国」のフリゲート艦が日本の領海に侵入したことから、海上保安庁の中型巡視船が駆け付けて警告した。3回目の警告をしたところ、フリゲート艦がミサイルを発射。中型巡視船の左舷に命中して爆発した。
戦争が始まるのか。大神のマンションに集まっていた誰もが固唾を飲んで聴き入った。驚きとショックで言葉が出なかった。
「うーん、うーん」。静寂を破ったのは大神だった。気難しい表情でテレビ画面を睨みつけ、突然、うなりだしたのだ。
「先輩、先輩、大丈夫ですか。ショックでおかしくなっちゃった?」。楓が大神に声をかけた。
画面はニュース番組に戻った。「北方独国」との衝突、非常事態宣言の発令をアナウンサーが繰り返して伝えた。
「おかしい。絶対におかしい」。うなっていた大神が声を発した。
「なにがおかしいんだ。確かにいきなりミサイルを発射してきたことは理解に苦しむ。ただ、あの国はもともと何を考えているのかわからないからな。おかしいと言えばすべてがおかしいことだらけだ」。井上が言うと、 「そうじゃないんです」と大神が遮った。
「北海道へのミサイル着弾の時もそうでしたが、国民への第一報が下河原総理による会見での説明から始まっています。日本海での本格的な衝突であれば、現場、当事者、関係者は大混乱しているはずです。救援信号もでたでしょう。海上保安庁は大騒ぎのはずです。沿岸の自治体や警察も同じです。もちろん、防衛庁や自衛隊にもすぐに連絡がはいり、出動態勢がとられるでしょう。それぞれの組織、団体には報道記者が終日張り付いています。それぞれの場で発表もあるだろうし、発表がなくても記者は異変に気付くはずです。総理のところに具体的な情報が上がり会見する前に、なぜ、速報が流れなかったのでしょうか」。大神が一気にまくしたてた。
「そう言われてみると、おかしいわね」と永野が言うと、井上は「確かに速報があってもいいはずだな。テレビニュースも下河原総理の緊急会見の直前には別の事故のニュースを流していた。政府による情報管理、統制が徹底されているのだろうか」と首を傾げた。
「戦争が起きようとしているんですよ、この日本で。フリゲート艦と巡視船の衝突は発生ものです。政策とか人事案件の発表とは違う。総理大臣が会見で明らかにするまで秘密にしたり、報道を控えさせたりなんてできるはずはありません」。大神は断言した。室内はシーンと静まり返った。
日本海に出動した自衛隊と「北方独国」の艦船同士が砲撃を交えた。緊急発進した戦闘機同士の空中戦が展開された。「北方独国」のミサイルが日本海の排他的経済水域の内側に何発も撃ち込まれた。官房長官はたびたび会見に臨んで国民に向かった状況の説明をした。
1時間ほどすると、テレビはさまざまな場所で撮影した映像を流し始めた。日本海沿岸の自治体、警察署の緊迫した様子、自衛隊の基地から発進する戦闘機、港を離れる艦船……。日本海に面した場所に建つ原子力発電所の様子も映った。非常事態に備えて職員が右往左往していた。防衛省の会議室に設けられた対策本部では、長机の真ん中に座った防衛大臣が各方面からの報告を聞いていた。
冒頭5分間だけ、報道関係者の入室が認められ、テレビカメラが発言者のアップのほか、会議室全体を俯瞰撮影した。真剣な表情の参加者たちと、その後ろに立ったままの大勢の職員が必死にメモをとっていた。
「ストップ」。テレビ画面を凝視していた大神がそう言って、画面を少し巻き戻した。防衛大臣が報告を聞く緊迫した会議の様子。大神は、端の方で目立たないように立つ男を凝視していた。一瞬、顔をあげて会議の発言者の方を見て再び下を向いた。
特徴のある顔を以前見た記憶があった。1年前、大神は日本記者クラブの年間大賞を受賞した。授賞式の後、名刺交換した参加者の中にいた。すぐに一人の男の顔が浮かんできた。「ノース大連邦」の駐日大使だった。なぜ、この男が対策会議の会議室にいるのか。誰が入室を許可したのか。
そう言えば、「ノース大連邦」の外務大臣が来日した際、下河原との会談に同席していたことは記事で読んだ。あの会談で、なにが話し合われたのか。外交、防衛に関する密約の内容についての協議は当然あっただろう。そしてほかにも……。考えられるのは、公選首相の選挙で下河原が圧勝するための協力態勢についてではないか。「ノース大連邦」は世論誘導が得意中の得意であることは知られている。
「わかったわ。これは、仕組まれた戦争です。背後で糸をひいているのは『ノース大連邦』。日本も『北方独国』にも筋書きが渡されていたはずです。そして間もなく停戦になります」。大神が言い切った。
「はー?」。楓と永野は唖然とするしかなかった。次に続く大神の言葉を待った。どうしてそう決めつけたのかについての解説が聞けるはずだ。
しかし、大神の口から出てきたのは意表を突く言葉だった。
「私、記者に戻ります。朝夕デジタル新聞社に戻ります」
「えっ」。一番驚いたのは井上だった。
「いきなり、何を言い出すんだ。政権に睨まれている君は常に危険に晒されているんだ。外での活動は、『虹』の厳重な警護と完璧な変装があって初めて動けるんだ。新聞社に戻ってまともな記者活動なんてできるはずがないだろう」
「『虹』の警護はありがたかった。でももう隠れていたらだめなんです。とにかく記者に戻って、堂々と取材して記事を書きます」
「やったー。そうこなくっちゃ。大神由希が記者に戻って得意の大スクープを放つ」と楓ははしゃいだが、「それで一体なにを書くの?」ときょとんとして聞いた。
「いっぱいありすぎる。そして時間がない。今から取材と執筆活動に専念します」
「首相公選はどうなるんだ。田島さんが追い詰められているんだ。元に戻って君に立候補を決断してほしいと野党幹部は言ってくるはずだ」
「選挙にはでません。権力チェックを言い続けてきた報道記者が、権力を一手に握る公選首相を目指すなんてどう考えてもおかしいです」。井上は黙ってしまった。
永野が口を開いた。
「よくわからないけど、記者に戻る意志は固そうね。そうなると、首相公選の候補者は結局、田島しかいないようね。ばかなことやって、大いに傷がついて、当選の可能性は限りなくゼロに近いけど、下河原の無投票当選よりはましってことね。勝てなくても批判票を少しでも増やしていく闘いになるのかもしれない」
「仮に田島さんが立候補するとして、大神は田島さんの応援に力を入れてくれるんだよな」。井上が確認するように言った。
「とんでもない。記者としては、あくまで公正独立です。下河原陣営にも田島陣営にも与することはしません。今やることは、溢れかえっている疑惑の数々を取材して記事にすることだけです」
「北方独国」は、日本の総理大臣に対して全面的な謝罪と、艦船が受けた損害に対する賠償を一方的に要求してきた。受け入れられなければ、日本本土に核ミサイルを撃ち込むと脅してきた。これに対して、下河原総理は脅しには屈しないと強硬な姿勢をとり、防衛大臣に細かい指示を出した。
全面戦争に突入する。国民の誰もがそう思った。「北方独国」に対する怒りの感情が湧き出てきた。同時に、今後本格的に戦争に突入して想定される惨事を思って悲嘆に暮れた。
だが、状況は一転した。突然、「北方独国」が停戦を申し入れてきたのだ。
下河原総理はこれに応じ、協議が始まった。
下河原の会見での国民向けの説明では、「ノース大連邦」の大統領が、日本と「北方独国」の間に入り調整に乗り出した。両国首脳との複数回にわたる交渉の末、「ノース大連邦」が停戦を求めたという。
「北方独国」は最初にミサイルを撃ってきたことについて、日本に謝罪した。そして両国間で、これ以上の軍事的な衝突を止めることで合意した。今後、事後処理について「ノース大連邦」の首都で、両国の外務、防衛大臣らが会って話し合われることになった。
「大神さんの言った通りになったわね」と永野がつぶやいた。大神はカレーライスのお皿をキッチンに運び、スポンジを泡立てて洗い始めていた。
テレビを観ているだけで、この「戦争」の本質を見抜いたというのか。この記者は、ジャーナリストとして別格の存在だ。なにもなかったように洗い物をする大神を見て、井上は恐怖に近い感情に襲われた。
日本国民は全面戦争が回避されたことで安堵した。軍事大国「ノース大連邦」の大統領と良好な関係を築いてきた下河原の功績だと評論家が言った。
下河原の評価が国民の中で上がっていった。
(次回は、■2週間の取材許可)
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小説「暗黒報道」目次と登場人物
目次
プロローグ
第一章 大惨事
第二章 報道弾圧
第三章 ミサイル大爆発
第四章 孤島上陸
第五章 青木ヶ原の決闘
第六章 暗号解読
第七章 戦争勃発
第八章 最終決戦
エピローグ
主な登場人物
・大神由希
主人公。朝夕デジタル新聞社東京社会部の調査報道を担 当するエ ース記者。30歳独身。天性の勘と粘り強さで' 政界の不正を次々と 暴いていく。殺人集団に命を狙われる中、仲間たちが殺されたりして苦悩しながらも、「真相の究明」に走り回る。
・下河原信玄
内閣総理大臣、孤高の党代表。核武装した軍国主義国家を目指す。
・後藤田武士
国民自警防衛団(民警団)会長、元大手不動産会社社長。大神の天敵。
★朝夕デジタル新聞社関係者
・橋詰 圭一郎
東京社会部調査報道班記者。大神の1年下の最も信頼している相棒。
・井上 諒
東京社会部デスク。大神の上司で、大神と行動を共にする。
・興梠 守
警察庁担当キャップ。
★大神由希周辺の人物
・河野 進
「スピード・アップ社」社長。下河原政権の広報・宣伝担当に就任。大学時代の大神の先輩で婚約者だった。
・岸岡 雄一
「スピード・アップ社」のバイトから取締役へ。子供の時から「IT界の天才」として知られる存在。
・伊藤 楓
インターネット会社「トップ・スター社」を創設した伊藤青磁の長女。大神に憧れて記者になる。
・鏑木 亘
警視庁捜査一課警部補。夫婦とも大神のよき理解者。大神が時々夜回りに通う。
・永野洋子
弁護士。大神の親友でよき相談相手。反社会的勢力の弁護を引き受けることもある。
・田島速人
永野の夫で元財務官僚。総選挙で当選し、野党「民自党」副代表になる。
★下河原総理大臣周辺の人物
・蓮見忠一
内閣官房副長官。元警察庁警備局長。報道適正化法(マスコミ規制法)制定の責任者。
・鮫島 次郎
内閣府特別顧問兼国家安全保障局長。下河原総理の指示で、最新鋭のミサイルとドローンの開発にあたる。いつも紺色仮面を被っている。
・江島健一
民警団大阪代表から、民警団本部事務局長になる。
・香月照男
民警団員。精鋭部隊入りを目指している。
★事件関係者
・水本夏樹
スーパー美容液を売るマルチ商法の会社経営者。会社倒産後、姿を消していた。
・水本セイラ
水本夏樹の一人娘。知能指数が際立って高い小学3年生で、謎の多い少女。