暗黒報道㊸第五章 青木ヶ原の決闘
■樹海へ、いざ
師走に入り、肌寒くなってきた。大神由希は、地下組織「虹」の衣裳部屋から選んだ厚いコートを着て取材に走り回っていた。下河原総理と「ノース大連邦」との間で交わされた密約について重点的に取材すると同時に、後藤田武士の居場所を突き止めるために関係先を当たりまくっていた。後藤田が会長を務める国民自警防衛団(民警団)の本部事務所は、東京駅近くの高層ビルの中にあった。連日出入りを観察したが、後藤田は現れなかった。
大神がワゴン車を呼んで「虹」の基地に戻ろうとした時、車内のテレビが速報を伝えた。
全日本テレビ局の最上階の総理執務室に1日午後1時ごろ、男が不法侵入した。警備員ともみ合いになり、男は取り押さえられる時に頭を打って重体。総理執務室にどうやって侵入したか、何をしようとしていたかは不明。下河原総理は別の場所にいて無事だった。
事件は発生したばかりで侵入した男の名前も出ていない。大神はテレビ局が近かったので進路変更して寄った。現場に行きたがるのは、記者の習性だった。周囲に人だかりができていた。不法侵入されたのが、総理の執務室ということで警察官が大勢出動していた。
「犯人はマスコミ関係者らしい」という話が聞こえてきた。
「そこのおばさん、あまり近づかないように」。念入りな変装をしていた大神は、警察官から注意を受けた。
朝夕デジタル新聞社社会部の後輩が現場に駆け付けているのを見つけた。
「やあ、元気?」と声をかけ、以前、ふざけてよくやった敬礼の仕草をした。後輩記者は不審そうな顔をしたが、すぐに目を見開いた。
「えっ、えっ、えっ。ひょっとして大神先輩ですか!」
「シー。名前を呼ばないで。一応、逃走犯だから。でもよくわかったね」
「敬礼挨拶をする人なんて大神先輩しかいないし。今、一体どこにいるんですか。みんな心配しているんですよ」。今度は声を潜めて言った。
「それは内緒。でも元気にしているから。ところで総理の執務室に男が入ったんだって」
「そうなんですよ」と言ったとたん、はっと気が付いたように大神の顔をじっと見た。
「どうかしたの」
「いや、犯人が誰だか知らないんですか」
「うん。今ここに着いたばかりだから」
「そうなんですか」。後輩は戸惑った様子だった。
「身元がわかったのね。それで誰なの?」。後輩は踏ん切りをつけたように言った。
「河野さんです。スピード・アップ社の社長だった河野進さん」
「えっ」。大神は驚きで言葉がでなかった。大神と河野が付き合っていたことを、この後輩は知っていた。それで河野の名前を出すことに一瞬、躊躇したのだった。
全身の力が抜けていった。
「どういうこと? 死んじゃったの?」
「病院に運ばれました。命に別条はないと聞いています。正式な発表はありませんが、下河原総理の執務室に侵入したことは確かなようです」
大神はその場を離れた。一人になりたかった。近くの公園のベンチに座った。
「ホームレスの街」と言われた地域で会った河野の姿を思い出していた。幸福公園にいる時はうらぶれた感じだったが、喫茶店に入ってからはシャキッとしてきた。「総理の執務室に入り込む」とか言っていた。「勝手に入ったらダメ。殺されちゃうよ」と止めたつもりだった。
一方で大神は、後藤田の行方については強い関心を示してしまった。
スマホを何気なしに手に取った。メールが届いていた。見ると、河野からだった。1時間半前の着信だ。河野が取り押さえられる直前ではないのか。民警団本部前で張り込んでいたのでずっとマナーモードにしていたため気付かなかった。
「青木ヶ原」とだけ書かれていた。
大神はこの意味することを理解した。後藤田が拠点にしている場所に違いない。これまで河野は、富士山麓方面、西湖近くと言っていた。さらに地域が絞られたことになる。もっと書き込みたかったのだろうが、警備員に見つるなどして、4文字が精一杯だったのだろう。
あの広大な樹海の中に後藤田がいるのか。にわかに信じられないことだが、ありえないことではないという気がしてきた。整形して別の人間に成り代わっていたが、なんといっても指名手配犯なのだ。隠れるように住んでいるのかもしれない。
「青木ヶ原」というメッセージは決して無駄にはしない。大神は固く誓った。
河野が重体になった事件から1週間が経った。
大神はタクシーをチャーターして、スピード・アップ社の本社がある霞が関のビルの前にいた。目当ての人物がビルから出てくるのを待ち続けて、すでに1時間半が経過していた。午後1時過ぎ、男が出てきた。
「岸岡君」。大神はタクシーの窓から声をかけた。
岸岡はしばらくきょろきょろしてやがて、タクシーの後部の窓から顔をのぞかせている女性に焦点を合わせた。しばらくじっと見つめた。そして驚いた声を上げた。
「大神さん、大神由希さんですよね。声でピンときました」
「さすがは岸岡。よくぞ見破った。とにかく乗って、乗って」
大神は岸岡をタクシーに招き入れた。2人で後部座席に並んだ。
「大神さん、今、どこにいるのですか」。岸岡は下河原総理に会うたびに、「大神を捕らえろ」と言われていた。絶好のチャンスが巡って来た、と思った。
「今は一時的に雲隠れしている。場所は私にもわからない」
「『虹』と行動を共にしていると聞きましたが本当ですか?」
「さすがは社長。『虹』のことまでちゃんと知っているのね。ところで河野さんが大変なことになってしまったようね」
「そうなんです。なぜ総理執務室に勝手に侵入したのか、よくわかりません。ところで、今日はどうしたんですか。私になにか用事ですか。河野さんの事件について詳しく知りたいのであれば会社に来てくれた方がいいかと思いますが。今から一緒にオフィスに行きましょう。大神さんであることは誰にも言いませんから」。岸岡は、ビルに入る時に、警備員に指示して、大神を捕まえてしまえばいいと考えていた。「さあ、一緒に行きましょう」と言ってタクシーから出ようとした。
「ちょっと待って。河野さんの事件のことはもちろん知りたい。ほかに起きた事件のことも全部知りたい。すべての真相を知りたいの。実は今日、真相にたどり着くきっかけになる場所に岸岡社長を案内します。半日、私に付き合ってほしい。ちょっと遠出することになるけどお願い」。大神の合図でタクシーが動き出した。
「遠出? どこへ」
「それは聞かないでほしい」
「それは無茶苦茶だ。言っている意味がわからない。私は午後の予定がぎっしり詰まっているんです。昼食に外出しただけですぐに戻らないと。総理から政府広報の仕事も突然ふってくるので会社の周辺にいないとまずいんですよ」
「すべてをキャンセルしてください」。大神はさらっと言った。岸岡はしばらくあっけにとられた表情を浮かべていたが、次第に怒りが込み上げてきたようだ。
「ふざけるな。すぐに車を停めろ。俺はここでおりる」。岸岡が強い口調で言った。タクシーは走り続ける。「こらっ、運転手、すぐに停めろ」
「えー、私は目的地まで行くように言われておりまして。こちらの女性の命を受けて動いています。直接、交渉してください」。運転手はとぼけた声で言った。
「大神、いい加減にしろ。俺を誰だと思っているんだ。スピード・アップ社の社長だぞ。総理だって俺の言うことに耳を傾けるんだ」。すごい剣幕で言うなり、スマホを操作し始めた。誰かに連絡して助けを求めようとしているようだった。
次の瞬間、岸岡の目と目の間に鉄の塊が突きつけられた。
拳銃だった。
「河野さんの手首を吹き飛ばしたのは私よ。知らなかったの? 社長さんの情報量も大したことないわね。さあ、次はあなたの眉間を撃ち抜くことになりそうね」。岸岡は恐怖で顔がひきつった。
「なんですか、これ。まさか、ホンモノ?」。岸岡はぶるぶると震え出した。
「もちろん、本物よ」
「うそでしょ、冗談ですよね」。岸岡は半泣きになっていた。
「じゃあ、試そうか。トリガーを引くわね」
「うわー、やめてくれ」。岸岡は叫んだ。じょろじょろと水が漏れる音がした。失禁したのだった。
「あーあ、お客さん、困りますね。ぴかぴかに清掃したばかりなのに」。運転手が笑いを含んだ声で言った。
「私の言うことを聞きなさい。スマホを渡しなさい」。大神が子どもを叱るような口調で言った。
「わかりました。殺さないでください」。大神は岸岡から受け取ったスマホを窓から投げ捨てた。
「もうこれ以上、なにも聞かないように」。大神は拳銃をしまった。「それからもう1人、疑惑の人物を呼ぶから。その人にも行き先は言ってはいないから」。岸岡は力が抜けたように放心状態になって「はいっ」と言ってうなずいた。
大神はスマホでメールをした。間もなくタクシーは、JR有楽町駅中央口近くの路上に止まった。そこに井上諒が立っていた。「虹」の情報班長だ。井上もタクシーの助手席に座った。
「これからどこへ向かうんだ」。乗り込むなり、井上が聞いてきた。
「私に任せてください」
「任せてくれと言われてもな。どこへ行くのか、誰に会いに行くのかぐらいは言ってもらわないと。君も知っての通り、俺は忙しいんだ」
「実は私もどのように行ったらいいのかよくわからないんです、運転手さんには住所だけ渡しています」
「なんてこった。頭がおかしくなったんじゃないのか」。信じられないといったようにおおげさなジェスチャーで言った。岸岡は黙ったまま2人の会話を聞いていた。
「岸岡君は行き先を知っているのか」。井上が聞いた。岸岡とは以前に一緒に仕事をしたことがありよく知っていた。
「いえ、何も聞いていません。大神さんが『任せてくれ』と言うだけです。信用するしかないようです。それに……」。岸岡は言葉に詰まった。
「それに、なんだ」と井上は不審な顔をした。
「抵抗できないんです。文句を言えば、ズドンとやられます」
「何を言っているのだ。お前まで頭がおかしくなったのか」。井上はあきれたように言った。
大神は化粧水のような液体が入った瓶を何本も取り出して、鏡を見ながら顔をごしごし拭いていた。変装を時間をかけて解いていた。2人の会話など耳に入っていない様子だった。
タクシーは東名高速に乗った。しばらく走ってから圏央道へ。
「もういいだろう。どこへ向かっているんだ。ステーキでも御馳走してくれるならばうれしいが」。沈黙に耐えられなくなったのか、井上が聞いた。
「ステーキ? いいですね。以前3人は一緒に仕事して、ともに闘ってきた仲間同士。昔話に花を咲かせるのもいいかも。でも残念ながら、今日は楽しい食事の時間を過ごそうというのではありません。『行き先は聞くな』といつも言っているのは井上さんですよね。今日ぐらいは私の指示に従ってください」
「それは君の身の安全を考えて言っていたのだ。状況が違うだろう。危険なところに向かっている感じがする。それにズドンってなんだ」
「知りません。今からお化粧をするので黙っててくれますか」。変装が解けてほぼ、すっぴんになった大神は今度は化粧道具を持ち出してきた。井上は「ふー」とため息をついた。問い質すのをやめた。バックミラーで大神のすっぴんの顔を見た。鼻筋の通った知的で美しい女性だと思った。
タクシーは中央自動車道に入った。2時間も走っただろうか。
「富士か」。井上がつぶやいた。前方に富士山が見えてきた。しばらく進むと、「西湖」に出た。湖畔でテントを張り、家族で遊ぶ人たちがいた。学生たちがバーベキューをしていた。合宿のようだ。
いつもと変わらない風景が通り過ぎていく。富士山が間近に迫ってくる。手前にもこんもりとした山々が連なる。
「青木ヶ原」の大きな看板が見えた。舗装された道路を走る。人通りもすれ違う車もなくなってきた。
「おいおい、樹海じゃないか。俺たち2人をほっぽって置き去りにするんじゃないだろうな」。井上が不安げな顔で言った。
「助けてください。ここでズドンはやめてください」。岸岡が悲鳴をあげた。
大神はじっと前を向き、目を凝らしていた。
タクシーは、舗装された道から脇道に入った。森の中に入り、しばらくすると、塀のようなものが見えてきた。真新しかった。ゆっくりと近づく。薄暗い空間の奥に、大きな屋敷が浮かび上がってきた。
「ここは一体……」。井上も岸岡も絶句した。
(次回は、■謎解き 大神が名探偵になる)
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小説「暗黒報道」目次と登場人物
目次
プロローグ
第一章 大惨事
第二章 報道弾圧
第三章 ミサイル大爆発
第四章 孤島上陸
第五章 青木ヶ原の決闘
最六章 暗号解読
第七章 戦争勃発
第八章 最終決戦
エピローグ
主な登場人物
・大神由希
主人公。朝夕デジタル新聞社東京社会部の調査報道を担 当するエ ース記者。30歳独身。天性の勘と粘り強さで' 政界の不正を次々と 暴いていく。殺人集団に命を狙われる中、仲間たちが殺されたりして苦悩しながらも、「真相の究明」に走り回る。
・下河原信玄
内閣総理大臣、孤高の党代表。核武装した軍国主義国家を目指す。
・後藤田武士
国民自警防衛団(民警団)会長、元大手不動産会社社長。大神の天敵。
★朝夕デジタル新聞社関係者
・橋詰 圭一郎
東京社会部調査報道班記者。大神の1年下の最も信頼している相棒。
・井上 諒
東京社会部デスク。大神の上司で、大神と行動を共にする。
・興梠 守
警察庁担当キャップ。
★大神由希周辺の人物
・河野 進
「スピード・アップ社」社長。下河原政権の広報・宣伝担当に就任。大学時代の大神の先輩で婚約者だった。
・岸岡 雄一
「スピード・アップ社」のバイトから取締役へ。子供の時から「IT界の天才」として知られる存在。
・伊藤 楓
インターネット会社「トップ・スター社」を創設した伊藤青磁の長女。大神に憧れて記者になる。
・鏑木 亘
警視庁捜査一課警部補。夫婦とも大神のよき理解者。大神が時々夜回りに通う。
・永野洋子
弁護士。大神の親友でよき相談相手。反社会的勢力の弁護を引き受けることもある。
・田島速人
永野の夫で元財務官僚。総選挙で当選し、野党「民自党」副代表になる。
★下河原総理大臣周辺の人物
・蓮見忠一
内閣官房副長官。元警察庁警備局長。報道適正化法(マスコミ規制法)制定の責任者。
・鮫島 次郎
内閣府特別顧問兼国家安全保障局長。下河原総理の指示で、最新鋭のミサイルとドローンの開発にあたる。いつも紺色仮面を被っている。
・江島健一
民警団大阪代表から、民警団本部事務局長になる。
・香月照男
民警団員。精鋭部隊入りを目指している。
★事件関係者
・水本夏樹
スーパー美容液を売るマルチ商法の会社経営者。会社倒産後、姿を消していた。
・水本セイラ
水本夏樹の一人娘。知能指数が際立って高い小学3年生で、謎の多い少女。