見出し画像

私が41歳で陸上を始めたのは、自ら闘う場を選びたいという欲求でパンクしたからだ

自己紹介と言うには些か長くなるが、私がなぜ41歳になって陸上を始めたのか、望まざる闘いの人生を振り返りながら『自ら闘いの場を選びたい』という欲求でパンクするまでを書いてみました。

最多のライバル=同じ生まれの団塊ジュニア達

1974年11月生まれ。所謂『団塊ジュニア』だ。思い返せば望まざる闘いに明け暮れ、駆け抜けてきた気がする。

出生数が2番目に多い年で、近所には子供が多かった。保育園に行かなかったので4歳まではお兄ちゃん達に混ざって遊んでいた。小学生を追いかけて走り、壁を登り飛び降りて怪我をして、殴り合いから突き飛ばされて怪我をする。遮断機の降りた踏切りに入ってギリギリで電車を避けて怒られる。

というと勇気のあるヤンチャな男の子と思われるかも知れないが、怖くて仕方が無いのに仲間外れにされたくない一心で走り抜けただけであった。

水泳、競技人生の始まりと挫折

3歳の頃、水泳クラブに通い始めた。母に言わせれば「私は泳げないから溺れても助けられない」ので通わせたのだが、これが45歳の今に至るまで良くも悪くも私の人生に絡みつくことになる。

幼稚園のうちに4種目はマスターして100メートル個人メドレーを苦もなくこなしていた。“育成コース”への誘いがあり一度断ったのだが、結局入ることになった。

最初のうちは出る試合全て勝つのだが、関東一円から選手が集まる大会や、ジュニアオリンピックとなってくると、小学生と言えども才能の差を感じることがある。やたらデカイ奴とか、陸の上では鈍いのに泳ぐとダイナミックな魚みたいな奴とか。

中学生になるとコーチからこんなことを言われ始めた。

「お前、水泳よりもっと瞬発系の競技に向いてるんじゃないか?」
「お前の身長が185あったら世界で通用するかもな…」

ふざけるな。15歳まで水泳に全てを賭けてきて今更別の道になど進めるものか。と、41歳で陸上始めた私が言うのもおかしな話だが、当時は本気でそう思った。

もう自分にはこれしか無いのだと言う固定観念と、他人からの優しい転向の勧めへの反発で高校卒業までは続けた。最後は身体中が故障の塊で痛み止めを飲まずに眠れないほどになり、流石に何かが切れてしまった。

受験戦争、苦しみを処理せずに

そういう訳で大学で水泳という道は消え、燃え尽きた上に高卒で生きていく術もなく普通に大学受験をした。

しかし“受験戦争”の戦火が最も激しいタイミングで、高3の夏から受験勉強を始めても当然結果は出ない。二浪して二流公立大学に転がり込んだ。

というと、ユルい二年半に聞こえるかも知れないが、高2の後半に家族に異変が起こっていた中での浪人生活であった。

親父の会社がバブル崩壊の煽りを受け倒産、個人で10桁の借金を抱えた。家や家財は差し押さえられ、まだ私達が住んでいるところに査定の内見が来た。

家族は離散。母と私それに幼い妹は叔母の家に居候した。私は受験もあるということで物置部屋に机とベッドを置かせてもらい、二年間閉じこもって勉強していた。

肩身の狭い立場で受験にも失敗し、自分が苦しんでいるということすらも気づかない、そんな暗い日々だった。

(もともと自分を整理するためのもので、この期間についてはもっと生々しく壮絶な事柄も書いたのだが、家族のプライバシーもあるので大幅に削りました。)

大学、大学院時代の逃走

さて、入学するのに選んだのは物理学科。小学生の頃に親父が買ってきた雑誌『Newton』の影響だ。(余談だが、研究室配属時に最初の進捗報告で「Newtonじゃないんだから…」と蔑む文脈で使われて、初めてあの雑誌の評価を知るのは理系あるあるだ)

向いてないという程ではなかったが、この世界は本物の天才が切り拓いて来たのだなあと実感したのに、高エネルギー物理学(素粒子物理学)の研究室を選択してしまう。

宇宙の根源を紐解くエキサイティングな分野だが、私には荷が重過ぎた。なんとかごまかしながら大学院を修士課程で終えた。

この期間は自分の良い加減な選択との闘い(というか逃走)だった。

なんとなく就職。またもや…

大学院を逃げ出すように就職活動。と言っても、二社だけ受けて最初に内定をくれた会社に入った。就職氷河期の最盛期に運が良かったと思う。

新人研修が終わってすぐに北海道のプロジェクトに配属される。月曜に札幌へ飛び金曜に東京へ帰ることを毎週繰り返した。ITコンサルのはずだったが、やっているのは一日中顧客のクレームを聞くことだった。

月に500時間の勤務が3ヶ月も続き、私のデスクの一番下の引き出しにユンケルの空き瓶が大量に入っているのを誰かが心配したのだろう、エライ人との面談が設定された。

3年ほど同じプロジェクトで過ごした後、横浜の観覧車が見えるオフィスで毎日ボーッとするだけの期間を数ヶ月もらったのだが、切れた糸は元に戻らず会社を辞めた。

初めてのフラフラ

生まれて初めて数年間、フラフラして過ごした。辞めた会社の同期がフリーランスとしての仕事をくれたり、遊びに誘ってくれたり、この期間は楽しかったけれど、そのうち貯金も底をついた。

起業

これまた辞めた会社の同期が起業をするから一緒にやってくれないかと声をかけてくれた。ありがたく誘いに乗った。

実力も覚悟も足りない故に、どうにも力になれないまま責任感だけで続けて来てしまったが、それがむしろ無責任だったのではと思い始めた頃、心と身体に異変が起きた。適応障害とうつとの診断だった。

ここまでを振り返る

近所の小学生と遊ぶのに必死で恐怖心を抑えた幼少期から、痛み止め無しに眠れなくなるまで追い込まれた競泳、家族離散、浪人、受験戦争、過酷な会社員時代を経て誘われた起業で心身を壊す。

自ら選んだわけでもない環境や、イイカゲンに選んだり成り行きに流されたりした道だったのに、他の道をちゃんと選ぶことができないから、しがみついて傷だらけになって闘ってしまった。

それで、パンクして、陸上をはじめた

そのことに気がついた時に、何かがパチンと弾け空気が抜けたような気がした。パンクしたのだ。

丁度その頃に、日本人初の9秒台とか、武井壮さんがマスターズで活躍するのを見て「あ、これやろう」と特に年齢制限とか書いてなかった陸上クラブに加入してしまった。41歳のことだ。

途中まで盛り上がった割には最後それだけ?と思われるかも知れないが、私にしてみても“道を選ぶってたったこれだけのことか”と驚いたものだ。

ここまで“自ら選んだのではない環境で”と言う言い方をしていたが、それなら自分で選べば良いのだ、と気づいたのだ。

そんなわけで45歳になった今も陸上を続けているのだが、今までは月に3回程度の練習たったのを、週に2回位に増やして、もっと本気でやってみるつもりです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?