『山月記』の話
インターネットでたびたび話題にあがる『山月記』。
それを目にする度に、中学生時代の、そして、大人になってからの、山月記に関する色々が思い浮かぶ。そして誰かに言いたくなる。でも、それを毎回ツイートするわけにもいかない(別にしてもいいんだけど)から、ここに書き留めておく。
みんな大好き山月記。(おれも好き。)
読んだ誰もが、自分の内面に直接触れられて、心を動かされる。
つまり俺たちも李徴であるということ。
でも俺たちは虎にはならず、ちっぽけで醜い人間の姿のまま、日々のうのうと暮らしている。
李徴はなぜ虎になったのか。
当時高校生だった俺は、それを疑問に思った。
色んな解説サイトをみてもこれといった答えは書いておらず、
「李徴は自分の才能を磨いても評価されない(才能がないと判明する)ことを恐れ、本気を出さなかったから」というようなことが虎になった理由として挙げられている。
いわゆるセルフ・ハンディキャッピングというやつだろうが、それでは不十分に思える。
だって、本気を出さないからといって虎にはならないから。
常識的に考えてそうだと思う。
でも、問題集でもテストでも上記のようなことを理由として書けば丸をもらえた。
当時俺には李徴が虎になった理由が分からなかったし、「本気を出さなかったから虎になった」をその理由としている人たちのことも分からなかった。
だけど、いまは李徴が虎になった理由がちょっとだけ分かる。
分かるというか、自分の中で納得できている。
その答え(のヒント)は高校の現代文の教師が教えてくれた。
山月記を扱う授業の最後、担任はこう口にした
「李徴は虎なぜ虎になったのでしょうか」
それは、授業で散々取り扱った問いで、それを説明する問題も解いたし、テストにも出た。そして丸ももらっていた。
生徒たちは、どうして今更そんな話をするのかと、きょとんとしていた。
だけど俺は、内心ドキドキしていた。
(来た……!)
って思った。
ああ、やっとどうして李徴が虎になったのかが分かるんだ、と。
そして先生は言った
「私の考えですが…… 李徴が虎になった理由は、分かりません」
え?どういうこと?理由を説明してくれるんじゃないの?
俺もきょとんとした生徒の仲間入りをしてしまった。
しかし、先生はこう続けた。
「『分からない』ということが、大事だったんだと私は思います。
この世にはなぜ起きたのか分からないことばかりです。
李徴が虎になるように、理由もわからない理不尽な出来事に私たちは振り回され、傷つき、後悔し、そうやって私たちは生きていきます。
誰でもこの李徴の様に、心に一つや二つの罪悪感の心当たりはあります。
そうして自分を責めてしまう。
でも、多くのことは理由の分からない出来事です。
自分に責任があると考えるのかどうかは自由です。
ただ一つ決まっているのは、私たちはそれを抱えて生きていくことしかできないということです」
俺はこの瞬間を今でも鮮明に覚えている。
この言葉を今でもこうやって思い出せる。
それは他の生徒にとっては単なるいつも通りの授業だったかもしれないけど、自分にとっては衝撃的で、価値観が変わる、というか、自分の価値観を築いていくうえでの基礎になるような出来事だった。
そして、先生はサルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉を教えてくれた。
出来事一つ一つに理由があるように思えるが、人生に(ここで言うような)理由はない。
人間はそれでも生きていく。
先生がこの授業をしてくれて良かったと思う。