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ローリー・ムーア「心をさがす場所」を読んで

少し前にオンライン講義でローリー・ムーアが扱われて、予習にとこの作品が収録されている短編集『愛の生活』(1991年、白水社)を借りた。
その後返却したものの、この作品がどうも胸に引っかかって、せっかくなので本を買って手元に置くことにした。

ニュージャージーに住むミリーは専業主婦で、夫のヘーンは大学で歴史上のイエスについて教えている。息子のマイケルはクスリをやって身を隠して以来行方不明で、娘のエアリアルはイギリスに留学中だ。

あるとき、エアリアルの知人の知人の青年ジョンがやってきて寄宿することになる。ジョンは車を売り払って、仕事も辞めて、アメリカに大きな期待を抱いてやって来るが…というストーリー。


ミリーは何も持っていない。学もなければ頭の回転も鈍そうである。遠くへ出かけたこともほとんどないし、自慢のチューリップは前の住民が植えたものである。
一生懸命リサイクル活動に取り組んで、一時は仕事にしようと思ったが挫折してしまった。

社会に何か影響を与えたい。何かになりたい。美人な娘は大学に進み外国を飛び回っている。自分はそうではなかった。だって仕方がないじゃないかそういう時代だったのだ。
頑張っても頑張っても、もう人生の終わりの方が近くて、思考力も衰えてきていて。

そんなミリーにヘーンは「何もそんなに頑張らなくても」と慰める。
全く慰めにはなっていないわけだが、このシーンだけでなく、ミリーとヘーンの関係はどこかチグハグだ。

ヘーンがイエスの生涯について熱く話す時、ミリーはヘーンがかつて自分で口にしていた言葉で相槌を打つ。そうすればヘーンが自分自身と対話できるからだ。
ではこの夫婦はヘーンが主導権を握っているのかと思えば、ジョンがいない夕食時、ミリーはフライパンにこびりついた料理をこそぎ落としてヘーンに食べさせる。もちろんヘーンはそれが食品のカスの寄せ集めであることは分かっているし、少々嫌がりながらも口を開けて「あーん」される。

物語の最後に、ベッドでヘーンにしがみつき泣くミリーの額にキスをしながら、ヘーンは「きみだけだよ、そばにいてくれるのは」と言う。それを聞いたミリーは、もっと強くヘーンを抱きしめなくては、と思う。

ここには(こんな曖昧な言葉が許されるのであれば)夫婦愛があるのだろうが(あってほしいが)、私がむしろ強く感じたのは甘えであった。

ヘーンも仕事はうまく言っているとは言えない。若者はヘーンの講義を聞いてくれず、自信を失ったヘーンは学生の目を見れない。教授にはなれないことが確定している。
それを踏まえると、この優しく甘いエンディングの内には「こちらもお前を見捨てないから、どうかお前だけは自分を見捨ててくれるな」という感情があるように思えて仕方がなかった。


簡単に言ってしまえば「中年の危機」を描いたこの作品を、当時30歳前後であったローリー・ムーアが書いたという事実も驚きである。

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