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一皮むけろと言うけれど

幼児を育てているとよく遭遇するのだけれど、彼らは何の前触れもなく突然脱ぎ出す。着ているものを1枚だけ脱ぐのかと思えば、一気に全裸になり走り去っていく。

思い返せばオムツ替えのほんのわずかな隙でハイハイで脱走していたし、今も風呂上がりには着せたと思ったパジャマや新しいオムツがいつの間にか脱ぎ散らかされていたりする。まるで何かの忍術のようだ。

なぜこうも脱ぐのか?暑いのか?暑くて着たくないならわかるけれど、そういった合理性とは無縁だ。なんせ真冬だろうが屋外だろうが屋内だろうが状況は変わらない。

これはもしかすると、もともと人間には全裸でいたいという欲求があって、成長と共に社会常識(+人間界でのルールなど)でとりあえず服は着なければと思い込んでいるだけなのかもしれない。


一皮むけろと言うけれど

経験や試練を経て一段階成長することを「一皮むける」という。イメージ的にはタマネギやタケノコのような層になっていて、より核心に近づくようなことなんだろう。

育児をしていて時折思うのだけれど、こども達の純粋さに触れるとどこでこれが薄まっていくのかが不思議になる。

思うに、成長と共にどんどん既成概念や常識とされるものに包まれて薄まっていくのかもしれない。何層ものオブラートのような半透明の思い込みで見えなくなっていく純粋さ。

幼いこども達にはそれがほとんどないから自由なのかもしれない。脱ぎたいときに脱ぐし、覚えたての下ネタを連発してゲラゲラと笑うし、空気なんて読む気のないドキッとする質問を突然ブン投げてくる。

これがニュートラルでピュアなもので、実は僕らはもともとこうだったんじゃないのか?皮を被りまくって鈍化しているのは自分の方なんじゃないのか?と感じたりする。


鈍化と純化

昨日のnoteで「削るとは、尖ること」だと書いた。要するに無駄を省いて削ぎ落とすことこそ表現には重要である、と。

鈍化と純化、漢字ではとても似ている。思うに、既成概念にまみれて鈍化していくことと、それを削ぎ落として純化していくことは相対的な位置にいつつも似ているのかもしれない。

創作では純化=purifyこそ肝であるが、人間的に生まれ持って純な状態である幼児って、無駄なものを蓄えまくって中年太りしている自分よりも実ははるかにクリエイティビティの高い状態に思えてならない。

さすがに36歳の僕が路上でいきなり服を脱いで疾走するわけにはいかないが、あれくらいの感性のピュアさを見習いたいものだなぁ・・・とボンヤリ思う。


うん。でも、服は着てほしいな。。。

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ヤマシタ マサトシ
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