【世界遺産・短編小説】「あと、ひと言だけ」前編
明治日本の産業革命遺産ミステリー小説
新人ミステリー作家の登竜門『このミステリーがすごい!』大賞受賞者をはじめとした新進気鋭のミステリー作家たちが、世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の地を実際に訪れて短編のミステリー小説を書き下ろし。広域にまたがる構成資産を舞台とした物語をミステリー作家陣が紡いでいきます。
ものづくり大国となった日本の技術力の源となり、先人たちの驚異的なエネルギーを宿す世界遺産を舞台にした不思議な物語を通じて、この世界遺産の魅力をより多くの方に感じていただき、価値が後世に繋がっていくことを願っています。
あと、ひと言だけ
芦沢 央
「おい、浜本」
聞こえた声に我に返ると、目の前に川島がいた。一瞬、自分がどこでなにをしていたのかわからなくなる。
「なにぼーっとしてんだ」
顔をのぞきこまれ、「してねえよ」と反射的に払いのけるそぶりをしたところで、見慣れた無表情の奥にいくつもの墓があるのに気づいた。すぐ近くの墓碑の傍らに立った案内板には、〈久坂玄瑞〉と書かれている。
ああ、そうだった、と思い出した。俺は、墓参りに来たんだった。
「てか、おまえこそちゃんと挨拶したのかよ」
きまり悪さをごまかすために言うと、川島は「挨拶」とオウム返しにした。高杉晋作の墓の前へ進み、墓碑を眺めてから、俺を振り向く。
「挨拶って、なに言えばいいの」
「そのくらい自分で考えろよ」
「挨拶……」
川島は小さくひとりごち、墓碑に向かって「おはようございます」と会釈をした。数秒して、再び俺を見る。
「したけど」
「いや、もっとなんかあんだろ。このたび高杉晋作役をやらせてもらうことになりました川島ですとか、精一杯取り組ませていただきますとか」
「ああ」
川島は目をしばたたかせた。
「なるほど」
うなずいて墓に向き直り、俺に言われたままの言葉を繰り返す。俺は、深くため息をついた。
「なにをするつもりなのかもわかってなかったんなら、おまえ、なんでここに来たんだよ」
「浜本が行こうって言ったから」
川島は当然のように答える。
たしかに、墓参りに行こうと言い出したのは俺だった。実在の故人を演じることになったらクランクイン前にその人の墓に出向く、というのが俺のルーティンだったからだ。その人が現実に生きていた土地に立ち、物質として存在する墓に相対する。そうすることによって、台本上の存在でしかなかった人間が質感を伴ってくるような気がするのだ。
来期から始まる高杉晋作を主役に据えた連ドラで、俺に与えられたのは久坂玄瑞役だった。
萩藩医の三男として生まれ、母、兄、父を相次いで亡くして十五歳にして久坂家の当主となり、二十四歳で自刃によって人生の幕を閉じた男。少し調べれば、松下村塾で高杉晋作と双璧とされ、吉田松陰に「長州第一の俊才」と言わしめたことや、松陰の妹をめとったこと、尊王攘夷派の志士として奔走したエピソードがいくらでも出てくる。
けれど、いくらそうした歴史的な記述を集めたところで、その人物の感情に自分の感情を共鳴させられなければ、役になりきって演じることはできない。
たった十五歳で家族全員に先立たれて家を背負うとはどういうものなのか。松下村塾で過ごした日々は彼にとってどんなもので、幼なじみでライバル的な存在でもあった高杉晋作に対してはどんな思いを抱いていたのか。二人の歩む道が分かれたとき、妻への最後の手紙を書いたとき、自刃する瞬間に脳裏によぎった光景はどんなものだったのか。
情報としては出てこない部分を、自分だったらどうだろうと想像する。そこでネックとなるのは、時代の差だ。江戸時代と現代とでは、命や年齢、距離への感覚が大きく異なる。久坂たちが生きていたのは、まだ身分制度があり、鎖国をしていた時代、そして異国の脅威にさらされて様々な決断を余儀なくされていた時期だった。志のために命を懸けるということの意味を理解するには、時代の状況を把握した上で、自分の中にある感情から重ねられそうなものを探し出さなければならない。繋がりそうな欠片を見つけたら、それを核にして感情を増幅させ、演技プランを組み立てていくのだ。
だが、川島のやり方は自分のものとはまるで違った。
インプットしたものをアウトプットするだけだと川島は言う。たとえば泣く演技なら、本当に泣いてる人をよく観察する。顔や主に上半身の筋肉の動き、呼吸の仕方、どんなふうに涙を拭うとどんな印象を受けるのか。泣く原因が何かによって泣き方は変わるし、涙の拭い方にはその人の性格が出る。必要に応じてすぐ引き出せるように、感じる印象でフォルダ分けしておくんだ、と。
悲しいことを思い出すんじゃだめなのかと訊くと、川島は、人前で泣くほどの感情がない、と答えた。だから俺の場合は自分の経験を再現するんじゃ、それぞれのシーンにふさわしいアウトプットにならないんだよ。それに、自分のフィルターを通すとどうしてもワンパターンになるだろ。
川島が、俺のやり方を否定するつもりで言ったわけではないことはわかっていた。それでも冷静な気持ちでその言葉を聞くことができなかったのは、自分でも演技がワンパターンな自覚があるからだった。
いつも無表情で、立っているだけで周りを魅了するような容姿なわけでもない川島は、けれど演技を始めた途端に別人になる。佇まいだけで他を圧倒するようなオーラを持った天才芸術家にも、言葉巧みに女を口説き落とす遊び人にも、人情味溢れた教師にも、得体のしれない殺人犯にも、純情な恋愛に振り回される大学生にもなれる。
俺と川島が出会ったのは高校の演劇部で、別々の大学に進学してからも同じ劇団に入り、毎日のように顔を合わせていた。
将来は俳優になりたいという夢を語り合い、俺の一人暮らしのアパートで連日演劇論を交わしていた学生時代――俺は大学三年生のときにスカウトされてモデルになり、そこから少しずつ活動範囲を広げていって、二十七歳で念願の映像デビューを果たした。以来、まだ主演の経験はないものの、それなりに重要な役どころを任せられるようになってきている。
川島は大学卒業後もアルバイトをしながら演劇を続け、その正確で多様な演技で評判になっていった。テレビや映画の仕事にも声をかけられるようになったのは二十九歳だが、実力派俳優として次々に仕事が入るようになり、たった三年で主演の座を射止めるまでになった。
「墓ってなんなんだろうな」
川島はぼんやりと墓石を見ながら言う。
「なにって?」
俺が聞き返すと、川島は俺を見てから、言葉に迷うように目を伏せた。
「いや……なんとなくここにいるとは思えないというか」
「まあ、二人とも墓は他にもあるしな」
高杉晋作の墓は下関にも、久坂玄瑞の墓は京都にもある。
「だけど二人が生まれ育った土地はここだけだろ。実際に現地を歩くことでしかつかめないものがある」
俺は、そう口にしたことで記憶が蘇ってくるのを感じた。
「久坂玄瑞誕生地」として石碑が建てられた旧宅跡と、武家屋敷の一部が公開されている萩城下町内菊屋横町の高杉晋作誕生地が徒歩で行ける距離しか離れていないことに改めて驚いたのはついさっきのはずなのに、なぜか記憶が断片的でふわふわしている。
「そうだな」
川島は俺の言葉を肯定したものの、あっさり墓地を出て行った。俺は後ろからついていきながら、気持ちがざわつくのを感じる。
川島を見ていると、こいつは俳優になるべくしてなったのだろうと思わされる。川島は実感も経験も必要としないからこそ、どんな役にも合わせられる。自分には川島の真似はできない。本物というのは、こういうやつのことをいうのだろう、と。
だが、だからこそ今回の配役はチャンスだった。久坂玄瑞が高杉晋作に対して抱いていたかもしれない羨望や劣等感の欠片が、自分の中には確実にある。
「俺もやり方変えてみようかな」
俺がつぶやくと、川島は前を向いたまま歩調を緩めた。
「どうしたいきなり」
「いやさ、ずっとおまえのやり方は真似できないって思ってたけど、決めつけずに挑戦してみるのもありかもしれないなと思って」
「……俺も、さっき同じことを考えた」
「川島も?」
俺は思わず立ち止まる。
「おまえがそんなこと言うの珍しいじゃん」
川島は俺を振り返り、ほんのわずかに目を細めた。
「浜本に連れ回されたせいでここの空気に乗せられたのかもな」
「お、いいぞ。それでこそ晋作だ」
俺は囃し立てながら、再び歩き始める。川島の横に並び、顔を見られないように少しだけ追い越した。