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【世界遺産・短編小説】「幽霊はどこへ行く」後編

 翌日、ふたたび稲音館を訪ねた私に、新森さんは不思議そうに首をかしげた。

「あら、おはよう。今日は一人なの?」

「はい。新森さんと話をしたくて」

 ほかの人がいたら昨日みたいにはぐらかされてしまうかもしれない。だから開店直後のこの時間を狙って、一人で祖母の家を出てきた。

「私と? どんな話かしら」

 新森さんが不思議そうにしながらも、椅子をすすめてくれた。

「幽霊の正体です」

 私は椅子に腰をおろしながら言った。

「幽霊……」と、なんのことかわからないという顔をした新森さんだったが、すぐに思い出したらしい。

「ああ。大翔くんが見た、犬連れの男の幽霊ね」

 犬連れってまるで西郷さんみたいと、新森さんが笑う。

「幽霊じゃなくて生きた人間ですよね、ただ犬を散歩させているだけの」

「そうなの?」

「違うんですか?」

 私は新森さんをまっすぐに見つめた。

 やがて新森さんがふっと笑みを漏らす。

「いつ気づいたの」

「昨日、お店を出た後です」

 ヒロくんからの電話を受けた私は、祖母と弟に会話を聞かれないよう、そして帰宅する両親と出くわさないよう、ひと気のないほうへと歩いた。そのときに気づいたのだ。

 なにもないからといって、そこに向かう理由がないわけではない。

 なにもないからこそ、そこに向かう。そういう場合もありえる。

 私と同じように。

「新森さんにはわかっていたんですよね。幽霊が――幽霊とされる男性が散歩させていたのが、どこの家の犬なのか」

 すぐに返事があった。

村田むらたさんとこのアレックス。柴犬っぽい雑種。散歩させていたのは、高校三年生になるお孫さんの健司けんじくん。私だけじゃなくてたぶん、あのときお店にいたみんな、わかってたんじゃないかしら……藤田さん以外は。藤田さんも、もしかしたら薄々気づいているのかもしれないけど」

 新森さんが意味深な笑みを浮かべる。それからふいに私を見た。

「美羽ちゃんはどうして気づいたのけ? 健司くんが疎水溝で待つ藤田さんのお孫さん――里緒ちゃんに会いに行ってるって」

「実は私にも最近彼氏ができて、お父さんにはそのことを話していなくて……」話しながら顔が熱くなってくる。

 新森さんは「なるほど」と大仰おおぎょうに頷いた。

「同じような立場だから、人目をしのぶ心理が想像できたのね」

「あと私もバイトしているんです。東京のファストフード店で。藤田さんは里緒ちゃんがバイトを頑張っていて、帰りが十二時近くになることもあると言っていました。でも、それはおかしいです。十八歳未満の場合、法律で夜十時以降働いてはいけないことになっています。私もそうですけど、十時になったら早く上がって家に帰れって追い出されます」

 最初に抱いた違和感だった。

 高校生なら夜十時までしか働けないはずなのに、どうして帰りが十二時近くになるのだろう。店までは祖母の家から車で五分。藤田さんの家からもたいして違わないだろう。自転車だと車よりは時間はかかるだろうが、さすがに二時間はかかりすぎだ。

 けれどあのとき私が疑問を口にする前に、話題が変わった。

 だけど振り返ってみると、話題が「変わった」のではなく、意図的に「変えられた」ような気がする。私がなにか言いかけたのに気づいて、岡元さんが話題を逸らしたのではないか。藤田さん以外のみんなが「わかっていた」という新森さんの口ぶりから察するに、たぶんその推理は当たっている。

「おそらく里緒ちゃんは、バイト帰りにどこかに寄り道しているんです」

「寄り道といっても、東京と違ってこのへんじゃそんなに遊ぶ場所もないよ」

「だから関吉の疎水溝なんです。大翔が見たという火の玉は、里緒ちゃんの自転車のライトか、足もとを照らすスマホのライトだと思います」

「私もそう思う」と頷いてから、新森さんは続ける。

「藤田さんのところの里緒ちゃんと村田さんのところの健司くんが付き合っちょるのは、この町のほとんどの人間が知っちょる。狭い町だからね、本人たちが隠そうとしても、そんな簡単に隠し通せるものじゃない。だからといって、藤田さんに告げ口したりはせんけど」

 新森さんは近くにあった椅子の背もたれをつかんで自分のほうに引き寄せると、どっこいしょと腰をおろした。

「藤田さんが、里緒ちゃんの帰りが遅いと言ったとき、美羽ちゃん、あれ? って顔したもんね。だから、岡元さんが慌てて話題を変えたんだと思う。里緒ちゃんがアルバイトの後で真っ直ぐ家に帰っていないことがわかったら、藤田さんから叱られるかもしれないがね。下手したら、バイトの後で健司くんと会うこともできなくなるかもしれん」

 でも、と、新森さんが笑う。

「まさかあの二人が疎水溝で会ってるとはね。健司くんが犬の散歩を口実に外に出ているのは知っちょったけど」

 犬を連れた幽霊の正体が健司くんであることにいち早く気づいた新森さんは、犬種を特定しようとする藤田さんをさえぎって話をうやむやにした。私が蒸し返そうとしても、花火大会の話題を持ち出して強引に話題を変えた。

「美羽ちゃん、お見事。小さいときから知っちょったけど、立派になったね。お祖母ちゃんも嬉しいだろうね」

 新森さんが顔の前で小さく拍手する。

「そんな……」

 そんなことはない。あの場にいた大人たちは、若い二人のためにあえて真相に気づかないふりをした。幽霊の正体を暴けずにふてくされた私は、やっぱりまだまだ未熟だと思い知らされた。

 目に見える景色がすべてではないのだ。

 そのとき店の扉が開き、大翔が入ってきた。

「姉ちゃん、ここにいたの」

「あんた、どうしたの。汗びっしょりじゃない」

 それだけでなく、弟は青い顔をして肩で息をしていた。

「なにも言わないでいなくなるから、どこに行ったのかと思ってあちこち捜し回ったんだよ。お父さんもお母さんもお祖母ちゃんも、姉ちゃんがどこに行ったか知らないって言うし、幽霊に連れて行かれたんじゃないかと思って」

 私と新森さんは互いの顔を見合わせた。

 それから私は、視線を弟に戻した。

「悪い幽霊じゃないみたいだよ」

「幽霊の正体がわかったの?」

 弟はきょかれたようだった。

「西郷さん」私は言った。

「嘘! マジで? 僕、西郷さんを見たの?」

 幽霊を見た恐怖より、教科書に載るような偉人に出会ってしまったという興奮が勝ったようだ。弟の瞳が爛々らんらんと輝き出す。

 いまの話は本当ですか? と問うような弟の視線が、新森さんを向いた。

 新森さんが椅子から腰を浮かせる。

「せっかく来たんだから、アイスキャンデーでも食べていく?」

 私たちが返事するより先に、いつの間にか店内に入り込んでいた猫のみーちゃんがニャアと鳴いた。




佐藤青南(さとう・せいなん)

1975年長崎県生まれ。
「ある少女にまつわる殺人の告白」で第9回『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞を受賞し、2011年同作でデビュー。2016年に『白バイガール』で第2回神奈川本大賞を受賞。ドラマ化された「行動心理捜査官・楯岡絵麻」シリーズ、「白バイガール」シリーズ、「絶対音感刑事・鳴海桜子」シリーズ、「お電話かわりました名探偵です」シリーズ、「ストラングラー」シリーズ、『犬を盗む』、『一億円の犬』など、著作多数。