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【世界遺産・短編小説】「幽霊はどこへ行く」前編
明治日本の産業革命遺産ミステリー小説
新人ミステリー作家の登竜門『このミステリーがすごい!』大賞受賞者をはじめとした新進気鋭のミステリー作家たちが、世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の地を実際に訪れて短編のミステリー小説を書き下ろし。広域にまたがる構成資産を舞台とした物語をミステリー作家陣が紡いでいきます。
ものづくり大国となった日本の技術力の源となり、先人たちの驚異的なエネルギーを宿す世界遺産を舞台にした不思議な物語を通じて、この世界遺産の魅力をより多くの方に感じていただき、価値が後世に繋がっていくことを願っています。
幽霊はどこへ行く
佐藤 青南
「姉ちゃん。姉ちゃんってば。起きてよ」
ゆさゆさと身体を大きく揺さぶられるのに抵抗して、私は寝返りを打つ。
「なに」
声に背を向け、目を閉じたまま不機嫌に答えた。まぶたの裏に暗闇を感じるので、まだ朝は遠い。起こされてなるものか。昼間に歩き回ったせいで、私は疲れているのだ。
固く誓ったはずなのに、続く弟の言葉に目を開けていた。
「おしっこしたい」
私は起き上がりながら身体をひねる。
「あんた、いくつになったの」
「七歳」と、大翔は馬鹿正直に答えた。そうしながらも、いまにも漏れそうだという感じで両脚をもぞもぞと動かしている。
「ならトイレぐらい一人で行けるでしょ」
「嫌だよ。無理」
すがりついてくるのを振り払い、私はふたたび布団に身を横たえた。全身から拒絶のオーラを発散しながら、ぎゅっと目を閉じる。少しかわいそうな気もするけど、ここは弟の成長のために心を鬼にしないと。
「漏れちゃう」
「漏らせば。怒られるのはあんただけど」
「一生に一度のお願い!」
「この前もそんなこと言ってたじゃない」一生に一度のお願いを何度する気だ。
それはともかく。
「うるさくしないの。お祖母ちゃんが起きちゃう」
壁を隔てた隣の部屋に寝ているのは両親で、祖母の寝室はその奥だった。だから祖母が起きるより先に両親が起きるだろうけど、より迷惑をかけてはいけない相手は祖母だ。
私たち家族は、毎年お盆の時期に父の故郷である鹿児島に帰省している。「私たちは泊めていただく立場なんだから迷惑をかけないように気をつけないといけないのよ」と、母は毎年口酸っぱく言う。私たちにはいつもやさしい祖母だけど、それだけではない別の面もあるのだろう。高校生になって、目に見える景色がすべてでないことが薄々わかってきた。
トイレはこの部屋を出て廊下を右に進み、突き当たりを右に曲がったところだ。歩くたびにみしみしと木の軋む音がする古い日本家屋は少し不気味だけど、祖母はこの家で生活しているのだから怖がることもない。
ところが、大翔はこう言った。
「行こうとしたんだけど、幽霊を見たんだ」
盛大なため息が漏れる。そういうことか。
今日のお昼、家族で城山を訪ねた。天気もよかったので、展望台からは遠く霧島や指宿の開聞岳までを望むことができて、すごく楽しい時間だった。その移動の車中で、父が城山にまつわる歴史を話してくれた。城山周辺は西南戦争最後の激戦地で、西郷隆盛が率いた軍の最後の本営地であるドン広場や、西郷が最期の五日間を過ごしたといわれる西郷洞窟、腰と腹に銃弾を受けた西郷が自害した場所といわれる西郷隆盛終焉の地の碑など、西南戦争に関連する史跡が数多く存在している。当然ながら西郷だけでなく、多くの生命がこの場所で失われた。
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どうして自害したの? 介錯ってなに? 首を斬ってどうするの? 降参して助けてもらうことはできなかったの?
大翔の質問攻めに父はたじたじになっていたけれど、あれは史実に興味が湧いたのではなく恐怖心の表れだったのだろう。それがわかっていながら、私はおもしろがって「あんたの後ろに誰かいるよ」などとからかってしまった。父も調子に乗って突然大声を出して驚かせた。
私は観念して、大翔と一緒に和室を出た。
左右に板張りの廊下がのびていて、正面に掃き出し窓がある。この家は小高い丘に建っているので、小さな庭の向こうの水田を見下ろすかたちだ。日中はジブリ映画にでも出てきそうなのどかで美しい田園風景が広がるのだけど、いまは暗くてほとんどなにも見えない。夜ってこんなに暗いものなのかと驚かされるほどに。
トイレに向かおうとした私に、大翔は窓の外を指差した。
「あそこにいたんだ、幽霊」
私は弟の指差す方角に目を凝らした。水田の間を走る細い道があるはずだが、幽霊どころかその道すら見えない。
「なにもいない」
「さっきはいたんだ。髪の短い男の幽霊で、犬を連れていた。あっちのほうに歩いていったんだ」
人差し指を動かして、大翔が幽霊の移動ルートを説明する。
「犬を連れていたの?」
「うん」
「幽霊が?」
つい噴き出してしまった。
「なんで笑うの」
「ごめん」本人は必死なのだから笑ってはいけないのだけど、頭の中に浮かんでしまったのだ。
東京の上野公園にある、西郷隆盛の銅像が。
私はあらためて大翔の指差した方角を見た。
「でもあっち、疎水溝のほうでしょ。なにもないじゃない」
大翔の説明では、幽霊は私たちから見て右から左のほうに歩いていた。右のほうに進めば市内に向かう道に出るけど、左のほうには民家すらない。それどころか街灯すらなくて、足もとを照らさないと真っ直ぐ歩くのさえ覚束なさそうだ。
左に進んだ細い道の先は二手に分かれており、右に行けば田んぼに沿った用水路、左に行けば関吉の疎水溝につながる。関吉の疎水溝とは、日本の近代化の先鞭となった集成館事業の水車を回すために引かれた水路の取水口だ。島津の殿様によって整備されたらしい。ゴールとなる仙巌園までは七キロも離れているのに高低差は八メートルほどしかなく、いかに当時の技術がすぐれていたかわかるだろうと、父から熱っぽく説明されたことがある。
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「その人、犬連れてたんでしょ。散歩してただけかもしれない」
「人じゃなくて幽霊」と訂正し、弟は言う。
「火の玉も見たんだ」
とっておきの切り札という口調だった。
「火の玉?」
「あっちのほう」と大翔が窓越しに指差したのは、まさしく疎水溝の方角だ。
私は窓に顔を近づけて目を凝らしたが、ガラスに反射した自分の顔がうっすら見えただけだった。
「わかったから、早く」
ほら行きなさいという感じで、弟の肩を軽く押した。
「なんだよ。信じてくれないならもういい」
大翔が憤然としながら、小走りでトイレへと向かう。
なんだ。付き添いなんて必要なかったじゃない。
私は部屋に戻り、枕もとで充電中のスマホを手にした。高校に入ってようやく所持を許可されたスマホは、帰省中も大活躍だ。写真を撮りまくって東京の友達に送っていたら、あっという間に充電がなくなる。
布団に横になりながら液晶画面を見ると、まだ夜の十時半だった。東京ではもっと遅くまで起きているけど、鹿児島滞在中は祖母に合わせて早めに休んでいる。それにしても、てっきり夜中の二時とか三時ぐらいだと思っていたのに。
私はLINEを開き、ヒロくんにメッセージを送信した。ヒロくんから『おやすみ』のスタンプが届いて会話が終わっていたけど、十時半ならまだ大丈夫だろう。
――弟に起こされた! 一人でトイレに行けないらしい!
すぐに既読がついて返信があった。
――マジで?笑
二か月前から付き合い始めた初めての恋人は、一つ年上の高校二年生だった。バイト先のファストフード店のバイト仲間だ。高校が別なので一緒に登下校はできないけど、毎日連絡を取り合っているし、バイトの後はいつも自宅の近くまで送ってくれる。
何度かメッセージのやりとりをしたところで、弟がトイレから戻ってきた。
「またヒロくん?」
トイレを済ませた安心感からか、さっきまでの恐怖など忘れたかのような晴れやかな表情だ。
「うるさい。子どもは早く寝なさい」
「お父さんに言っちゃおうかな。お姉ちゃんに彼氏できたって」
「そんなことしたらタダじゃおかないから」
私は隣の布団を蹴りながら、ヒロくんに『明日もバイト頑張ってね』とメッセージを送った。
翌日、私たちは祖母に連れられて近所のギャラリー&カフェに出かけた。稲音館という名前のその店は祖母の行きつけで、鹿児島に来るたび訪れている。祖母には常連客と交流したり、洋裁仲間の作った服や雑貨などの展示を見るのが、私たちきょうだいには、この店の看板猫のみーちゃんと遊ぶのが、大きな楽しみになっていた。
テラスで横になってくつろいでいるみーちゃんとひとしきり遊んだ後で、店に入る。
お昼どきを過ぎた店には、二組の先客がいた。女性の三人組と、男性二人組。全員が祖母と同じくらいの年代だった。みんなご近所さんで顔なじみなので、私も全員の顔と名前がわかる。それなのに向こうには私たちを覚えていない人もいたらしく「川畑さんのお孫さんけ? こげな大きなお孫さんがおいやっと?」と驚かれた。
「なにを言うちょっとねぇ、山元さん。去年も会ったがね」
そう言って笑う眼鏡の女性が、鈴木さん。
「あたいたちのこと、覚えちょっけぇ?」と自分を指差す丸顔の女性が、田中さん。
私が頷くと、山元さんが目を瞬かせた。
「会たこっがあったけぇ?」
「失礼な話だがね」と苦笑し、鈴木さんが「美羽ちゃんと大翔くん」と私たちを紹介してくれた。
「いくつになったとけぇ?」
その質問を投げかけてきたのは、男性二人組のテーブルの、白髪頭の岡元さんだ。
「七歳」と大翔が、私は「十五歳です」と答える。
「十五歳ってことは、中学生け?」
山元さんが身を乗り出してきた。
「高校一年生です」
「そいなら藤田さんのお孫さんと同じくらいじゃないけ?」
田中さんが、男性のテーブルを向いて言った。
二人の男性のうち、頭の禿げ上がったほうの藤田さんが、コーヒーカップから視線を持ち上げる。
「うちの里緒は高二じゃっど」
「もうそげな年ね。疎水溝の観光案内のボランティアをしちょっち、言うちょらんかったけぇ?」
山元さんの発言に、藤田さんはあきれ顔で肩を揺らした。
「そいはもう二年以上前のことじゃがねぇ」
「そげん経つかね?」
山元さんが目を丸くする。
「そげんいえば藤田さん。最近、里緒ちゃんを連れっこんもんねぇ。前はよう一緒に来ちょったとにねぇ」
そういって麦茶のグラスを載せたお盆を運んできたエプロン姿のいかにも朗らかそうな女性が、このお店の店主の新森さんだ。
「連れてくればよかのに」と田中さんが水を向けると、藤田さんは渋い顔でかぶりを振った。
「最近はアルバイトが忙しいみたいだから。平日は毎日遅くて、帰りが十二時近くになっこんもあるし、週末もだいたいおらんでやなあ」
「アルバイトって、どこでな?」
鈴木さんが訊いた。
「県道沿いにコンビニがあるでしょ。あそこ。自転車で通ってる」
藤田さんの口にした大手チェーンの店は、私も利用したことがある。祖母の家から車で五分ほどの距離だが、このあたりの集落からだと最寄りのコンビニだ。
それにしても――。
頭に浮かんだ疑問を口にする前に、岡元さんが訊いてきた。
「疎水溝は知っちょっけぇ? 世界遺産になってるがねぇ」
口調から誇らしさが滲み出ている。
「知ってます」
「週末にはこん近くの中学生が、ボランティアガイドをしとるがよ。里緒ちゃんも中学生のころやっちょったよなあ」
「ガイドの途中の休憩時間とか、終わった後とか、うちん店にもよう寄ってくれたとなあ」
新森さんが懐かしそうに目を細めた。
「疎水溝って……お姉ちゃん」
大翔が不安げに袖を引っぱってくるのをさりげなく振り払ったが、祖母に気づかれてしまった。
「大翔。どげんしたの」
「なんでもないよ。ね、大翔」
余計なことを言うなよ、という牽制の視線は無視された。
「昨日の夜、幽霊を見たんだ」
「幽霊って?」と祖母が素っ頓狂な声を上げ、視線が私たちに集中する。こうなるともはや弟の口を封じることはできない。
「男の幽霊。田んぼの脇の前を横切って疎水溝のほうに歩いていった」
「疎水溝のほうに?」
山元さんに確認され、大翔は大きく頷く。
「犬を連れてた」
「犬?」と訊き返したのは、鈴木さんだ。
「あと、疎水溝のほうに火の玉も浮かんでいた。この目ではっきり見たんだ」
案の定、奇妙な空気になった。
どう反応すればいいのかという感じで、大人たちが互いの顔を見合っている。
「たんに近所の人が犬の散歩をしていただけでしょ」
私は笑いながら言った。しょせんは子どもの戯言なんで真に受けないでくださいね、という感じで。
だが藤田さんが神妙な顔で訊く。
「犬を連れてたって、どんな犬ね?」
「どんな……って」
「大きさとか、毛の色とか。このあたりで犬を飼っちょっ家ならだいたいわかっが、犬の特徴がわかればどこの家の犬かわかる」
なるほど。どこの家の誰が犬を散歩させていたのか特定できれば、幽霊でないことが証明できて、弟の不安を取り除くことができる。
ところが、新森さんが笑いながら言った。
「幽霊なんだから、どこの家の犬でもないんじゃないの」
「そりゃそうだ」と女性陣が笑う。
味方を得た大翔の勝ち誇ったような視線を頬に感じて、少しかちんときた。
「でももしかしたら幽霊の正体が――」
私が言い終える前に、新森さんに声をかぶせられた。
「そげんいえば錦江湾の花火大会には行くのけ?」
「そんころにはもう東京に戻ってる」
私たちの代わりに祖母が答えた。
「そうね。せっかくなんだから、観ていったらいいのに」
残念そうな新森さんに同調するように、大人たちが頷く。
そこからはすっかり話の流れが変わってしまい、幽霊の話題を蒸し返す雰囲気ではなくなってしまった。おもしろくない。私は愛想笑いで相槌を打ちながら、ヒロくんに不満のLINEを送り続けた。
すると店を出たタイミングで、ヒロくんから電話がかかってきた。
持つべきものはやさしい彼氏だ。私は液晶画面に表れた発信者の名前を見てにんまりとする。
不覚にも、その顔を大翔に見られたらしい。
「あれ? もしかして……」
それ以上言ったら許さないからね。ぎろりとひと睨みして黙らせた。
「どうしたの?」
少し後ろを歩いていた祖母には「なんでもない。バイト先から電話」と嘘をついて誤魔化した。
「そいなら早よ出らんな」
「うん。先に帰ってて」
祖母と弟に背を向け、私は祖母の家とは逆方向に歩き出した。『応答』ボタンを押してスマホを耳にあてる。
『もしもし。美羽?』
「ヒロくん。電話ありがとう」
『いや。おれも声を聞きたかったから』
心臓がとくんと跳ねる。ああ、早く会いたいな。
電話しながら歩いて、ふと思う。両親はいま、市の中心部に買い物に出かけている。この道を歩いていたら、帰宅途中の両親の車と出くわすかもしれない。細い道に入り、ひと気のないほうを選んで進んだ。
毎年遊びに来ているけど、この道を歩いたことはないな。
そんなことを考えたとき、「あっ」ふいに閃いた。
『どうした? 美羽? もしもし。もしもーし』
私は呆然としたまま、しばらく反応できなかった。
写真協力: 鹿児島観光コンベンション協会