【世界遺産・短編小説】「すべては水に流して」前編
明治日本の産業革命遺産ミステリー小説
新人ミステリー作家の登竜門『このミステリーがすごい!』大賞受賞者をはじめとした新進気鋭のミステリー作家たちが、世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の地を実際に訪れて短編のミステリー小説を書き下ろし。広域にまたがる構成資産を舞台とした物語をミステリー作家陣が紡いでいきます。
ものづくり大国となった日本の技術力の源となり、先人たちの驚異的なエネルギーを宿す世界遺産を舞台にした不思議な物語を通じて、この世界遺産の魅力をより多くの方に感じていただき、価値が後世に繋がっていくことを願っています。
すべては水に流して
七尾 与史
袴田拓也はサドルから尻を上げてペダルに全体重をかけた。
「待ってくれよぉ。ちゃんと謝ってんじゃん」
やっとの思いで追いついた岩崎夏美に声をかける。息が切れそうだ。夏美は長い黒髪をなびかせ、真っ直ぐに前方を見据えながら自転車を漕いでいる。彼女は怒ると前を見据える癖がある。
二人は中間市内にある高校、二年三組のクラスメートである。去年、拓也は静岡県浜松市から父親の転勤で中間市に越してきた。もちろん高校も転校となった。拓也と夏美は席が隣同士。映画好きが一致したことからマニアックな映画について話すようになり、先月あたりから一緒に勉強したり帰宅したりするようになった。
まだキスもしてないのだが、拓也的には友達以上恋人未満という認識である。もう一押しで「未満」が「同然」に格上げされる気がする。
「すっぽかしたのは何度目?」
「ええっと……二度目かな」
「三度目」
彼女は前方に眼差しを向けたまま言った。
「ごめんってば。謙太郎から急に電話が入ったんだよ」
昨日の放課後、図書館で一緒にテスト勉強をする約束をしていたのだが、謙太郎たちからカラオケに誘われて、彼女との予定をすっかり失念していた。いくら夏美と一緒とはいえ勉強は好きではない。どうしてもカラオケやらゲーセンに流れてしまう。
過去にも似たようなことが二度ほどあった。
仏の顔も三度までと言うけれど、彼女に三度目はあるのだろうか。
拓也は夏美の前に出て、彼女の進路を塞ぐ形で自転車を止めた。夏美は右足の爪先を地面につけると少しだけ首を傾けて拓也を見つめる。
ああ、やっぱり可愛い。
二年三組で一番の美少女である――男子クラスメートたちの一致した見解だ。
「どいてくれないかな。うちに帰ってテスト勉強したいんですけど」
「い、いや……ちょっと待って。どうしても気になることがあってさ。前々から夏美に訊こうと思っていたんだ」
「なによ」
すぐには答えられない。なぜなら「夏美に訊きたいこと」は彼女を止めるための方便だからだ。
さらに引き留めるためには「気になること」を捻り出さなければならない。もちろんなにも考えてない。
拓也はおもむろに周囲を見回した。二人が走ってきたアスファルトの道路、左手には土手に挟まれた遠賀川と水門らしき施設、数百メートル先の前方には遠賀橋が見える。
遠賀川は一級河川で、九州内では幹川流路延長において十二番目の長さである。ここから見ると川幅は二百メートル弱といったところか。なんでも流域は九州の一級河川の中では上位の人口密度となっていて、ひとたび川が氾濫すると、大きな被害が出てしまう可能性が高いのは見た目の規模からして想像できる。
歩道では一人の男性老人が、設置されたベンチに腰掛けていた。荷物もないことから近所に住んでいるのだろう。
「訊きたいことがないんだったら、どいてくださる?」
夏美は拓也を責めるとき慇懃な口調になる。
「いや、訊いてくれよ。ここに越して来てから気になってしょうがないんだ」
「だからなにが?」
「その……あの……」
考えろ、考えろ!
ここで立ち去られたらリカバリーできる自信がない。彼女を狙っているクラスメートは他にもいるはずだ。せっかく「恋人未満」まで持ち込めたのに。キスもできずに卒業したらきっと一生後悔する人生を送ることになる。ましてや他の男に……それだけは嫌だ!
そのとき目に入ったのが煉瓦造りの建物だ。壁面は緑のツタに覆われている。かなり古い建物だ。見た目からして百年以上前のものだろう。ベンチに腰掛けた老人はその建物をぼんやりと眺めている。
拓也は煉瓦造りの建物を指さした。よくよく見ると丸窓や連続した半円アーチ窓が施されていて何気に瀟洒なデザインである。おそらく相当にセンスのある設計者がデザインした建物なのだろうと推察した。
「あれだよ、あれ! あれがいったいなんなのか、前々からずうっと気になっていたんだ」
歩道と敷地の境目は有刺鉄線が施された柵で隔てられている。
登下校で一日二回は通りかかっていたが、古い倉庫かなにかだと大して気にも留めてなかった。改めて見るに敷地内に入れないようになっている。何気にセキュリティが厳重ではないか。
「拓也、中間市民のくせに知らないんだ」
「いやいや、俺、去年ここに引越してきたばかりだから」
人生の大半を浜松市で過ごしている。中間市在住歴一年の初心者だ。
「そっか……そうだったよね。だったら無理もないのかな。あれはイサンよ、イサン」
「イサン? ああ、ガストリンね」
先日、生物の授業で習ったばかりだ。
「それは胃酸でしょ。バカじゃない」
夏美は息を吐きながらサドルから尻を離すと自転車から降りた。そのまま前方に引いていく。拓也は彼女の後ろについて行った。敷地前の歩道は若干広くなっており、路面の一部は煉瓦が施されている。
「ほらここに書いてあるでしょ」
そこには施設の案内板が設置されていた。写真と地図、さらには図表や説明文が掲示されている。この歩道は幾度となく通っているのに、この案内板はスルーしていた。一度も立ち止まって見たことがないどころか、意識すらしたことがない。
というわけで、今回初めて目を通す次第である。
「ユネスコ世界文化遺産?」
「そう。いわゆる世界遺産ね」
「こんな街に世界遺産?」
「こんな街で悪かったわね。私が生まれ育った故郷なんですけど」
夏美はわずかに小鼻を膨らませた。そんな仕草も可愛い。
「いやいや、そういう意味じゃない。世界遺産ってほら、ピラミッドとか自由の女神とかグランドキャニオンとかだろ。こんな身近な建物が世界遺産なんていわれてもピンと来ないよ」
「まあ、たしかにそれらとはスケールが比べものにならないね。この建物は遠賀川水源地ポンプ室といって、世界遺産の中でも『明治日本の産業革命遺産』として登録されたんだ」
「産業革命? これが?」
ただの古い倉庫だと思っていただけに産業革命がイメージできない。
「官営八幡製鐵所くらいは知ってるでしょ」
「バカにすんな。日本史にも出てくるじゃないか」
「十九世紀から二十世紀初頭にかけて日本の近代化の礎を築き、その後の鉄鋼業を支え続けた製鐵所。もちろんこちらも産業革命遺産に登録されてる」
「八幡製鐵所は分かるけど、なんでこの煉瓦造りが遺産なんだよ」
「製鉄には大量の水を必要とするのは分かるよね。このポンプ室が遠賀川から製鐵所に送水していたんだよ」
夏美はどこか誇らしげに胸を張っている。
「八幡製鐵所は遠賀川の水を使っていたのか」
「そうだよ。鉄鋼生産に必要な水の六割を今でもこのポンプ室が送水してる。主役は製鐵所でしょうけど、さしずめこちらは縁の下の力持ちといったところね」
さらに彼女は解説を続けた。「明治日本の産業革命遺産」の八幡製鐵所関連資産は、ここポンプ室に加え、北九州市にある旧本事務所、修繕工場、旧鍛冶工場の四施設である。そして八幡製鐵所は九州製鉄所と名前を変え、ポンプ室は今でも現役で稼働を続けている。八幡製鐵所への工業用水だけではなく、当時の若松市や八幡市、戸畑市にも上水道を供給して、人々の生活を支えていたという。そして現存する明治時代の煉瓦造り送水ポンプ場としては国内最大規模を誇るそうだ。
「ほええ、何気にすげえもんが身近にあったんだなあ。完全にスルーしてたわ」
心底感心した拓也はため息をついた。思いつきで指した煉瓦造りが偉大な産業革命遺産だったとは。
ちなみに産業革命遺産だが、拓也の出身地である静岡県では韮山反射炉が登録されていると案内板に記載がある。そういえば両親がそんな話をしていたことがあったような気がする。
「中間を舐めんな!」
夏美は拳を拓也の胸にぶつけた。
「舐めてない、舐めてない。それにしてもさすがは地元民、詳しいね」
「実はおじいちゃんがここに勤めていたんだ」
彼女はどこか懐かしむような目で施設を見つめた。
「マジ? 技術者でしょ。どんな人なの」
「写真でしか見たことがない。私が生まれるずっと前に亡くなっているんだけどね。おばあちゃんに至ってはお父さんを産んで間もなく亡くなったらしいわ。二人ともまさに美男美女カップルだよ。今度見せてあげるよ」
「めっちゃ楽しみ!」
どうやら夏美の不機嫌は収まりつつあるようだ。
「実は私も前々から気になることがあったんだけど」
「えっ……」
――拓也は私のこと彼女だと思ってくれているの?
もちろんだよ、もちろん!
「あそこに腰掛けているおじいちゃん。ちょくちょく見かけるんだけど、いつもああやってポンプ室を眺めているんだ」
「そ、そうなんだ!」
拓也は頭を激しく振って、妄想を払った。一瞬、夏美が怪訝そうな表情になった。
「ポンプ室は非公開だから敷地内への立ち入りはできないようになってる」
セキュリティが厳重なのはそういうことなのか。
老人は拓也たちが来るより前にあのベンチに腰掛けていた。懐かしむというより愛おしむような眼差しをポンプ室に向けている。
「あのぉ、はじめまして」
拓也は老人に近づくと声をかけた。夏美は「なにやってんのよ」と腕を引っぱる。
「おじいさんはもしかしてあの建物の関係者の方ですか?」
老人は腰を下ろしたまま眩しそうに拓也を見上げた。
「いかにも。私は元従業員だよ」
彼は顎先でポンプ室を指した。
見たところ八十代後半といったところか。頬や口元には無数の細かい皺が刻まれている。黒目はわずかに白みがかかっていた。口元からは黄ばんではいるが頑丈そうな前歯が見え隠れする。ここまで一人で歩いてきたところからして足腰は弱ってないのだろう。白いポロシャツに淡い空色のチノパン、頭にはカンカン帽を被っている。
突然、夏美が前に出た。
「私の祖父もここで働いてました。岩崎三郎といいます」
「あんた、三郎さんのお孫さんかい?」
「祖父をご存じなんですか」
「知ってるもなにも先輩だよ。当時は随分と世話になった」
老人は松本博史と名乗った。
「ええっと、祖父が生きていれば……」
夏美はブツブツとつぶやきながら計算を始めた。
「私が八十四だから、三郎さんは八十七だね。亡くなっていたとは知らんかった」
「私が生まれるずっと前です」
「そうか……あのポンプ室は病気で辞めることになってしまって勤めたのは一年ほどだったかな。三郎さんはなにかと良くしてくれたのに、手紙一つ出さず不義理をしてしまいました」
博史はカンカン帽を脱ぐと申し訳なそうに頭を下げた。頭髪はほとんど残っていない。
「いえいえ、父からも優しい祖父だったと聞いてますから、怒ってないと思います」
「たしかに川筋の連中と違って穏やかな人だった」
「カワスジ?」
拓也が訊き返すと博史は呵々と笑った。
「遠賀川流域の男伊達の気性を川筋と呼ぶんだ。なにかと気性の荒い連中だからね」
「そ、そうなんだ」
男子クラスメートは浜松の連中とそう変わらない気がする。時代が変わったのだろうか。
「あの……もしよかったら祖父の話を聞かせていただけませんか。どんな人だったのか、私も知りたいんです」
夏美の言葉に博史の表情がフワリと緩んだ。
「どことなく三郎さんの面影がある」
「本当ですか」
「ああ。彼は今でいうイカメンさんでな」
「イケメン……ですか」
夏美がふき出しそうになるのを我慢している。
「ああ、そうそう、イケメンさん。私は一九六五年に技術者として別部署からポンプ室に配属された」
一九六五年といえば今から五十八年も前だ。拓也の両親も生まれてない。夏美も両親が生まれる前だと言った。
「まだ右も左も分からない私を指導してくれたのが三郎さんだ。よし、今回は三郎さんにまつわる不可思議な話をしよう。いったいあれはなんだったのか……私にとってもいまだミステリなんだよ」
「ミステリなんですか!」
夏美は目を輝かせて身を乗り出した。
「できたら君たちに謎解きをしてほしい」
「まずは聞かせてください!」
夏美と拓也は博史を挟む形でベンチに腰を落とした。夏美のご機嫌をとるつもりがまさか謎解きになろうとは。
博史はカンカン帽を被り直すと遠い目をして思い出話を語り始めた。