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「電車の音がさ、懐かしいから窓あけておいてよ」16-2022/11/07

 今年(2022年)は鉄道開業150年だそうで、開業日の10月14日前後から、関連催しがあちこちで目につく。住まいの港区は新橋駅があり、鉄道発祥の地ということで、ことさらいろいろ行われている印象。現在の港区立郷土歴史館の企画展テーマもこれらしい。

 私には姉が二人いる、いや、いた。私は戸籍上、なんと三女だ。いちばん上の姉は生後2か月で旅立ってしまったので残念ながらつき合いがない。だが、父が国鉄マンの家に生まれたその姉、和子ちゃんの誕生日はなんと10月14日。鉄道開業日だったという。国鉄マンの父は大喜びだったらしい。赤ちゃんのまま見送ることになり、どんな思いだったか、、、(切ない)。その1年後に、私としては38年間つき合うことになる姉、由美子が生まれた。10月12日が誕生日。惜しい、、、10月14日より2日早かった(笑)。

 私の姉由美子は1998年10月9日に、生まれた病院と同じ病院から旅立った(享年41歳)。新宿にあるJR東京総合病院である。生まれた当時は、中央鉄道病院といっていたように思う。国鉄職員と家族のみが利用できる職域病院だった。私も幼稚園児時代に入院したことがある。

 世の中、仲よしきょうだいは多々いるが、葛藤大のきょうだいもまた存在する。うちは、後者、少なくとも私にとってはそうだった。姉は4歳年上だったからそんなもんかと思うが、遊んでもらった記憶はない。なんだかいつも怒られていたよな、、、という記憶。親より怖いのが、うちのお姉ちゃんだった。思春期以降、こんな人とは友だちにはならない、なれないとさえ思ったこともある。34歳のとき「空の色と地面の色が変わった」と思った両親との別れがあり(15-2022/10/07参照)、姉との葛藤はその時点にピークに達し、少し疎遠になった。だがある日、電話でがんの再発を知らせてきた。その電話の日から約10か月後、姉は父と母の元へ逝った。子どもたち3人を残して。

 姉とのつき合い方には長年苦労した。だが、姉の最後の最後だけは恐れ入った。最後まで子どもたちの前で、相当痛みが強くなった時期も母であり続けた。それはそれはすごかった。私との関係は?というと、闘病の最中、最後の最後に私は姉から、多分初めて褒めてもらった。私の記憶のなかでは、一度も姉から褒められたことがない。だから、生涯のたった一度の姉からのお褒めの言葉。全身骨へのがん転移で、姉は自力で動けなくなっていた。ベッドから椅子への介助が必要になり、手伝ったときだ。
「さっちゃん、うまいわ~お父さん(夫のこと)のよりずーっといい。お父さんは力任せにやるからさー痛いんだよ」
姉から褒められた、、、まさかの移乗の介助で(ちなみに私はペーパー介護福祉士)。

 その昔怖くて怖くて仕方なかった姉を介助することになるなんて。それまで一度も褒められたことはなかったのに、ここで褒められた。なんだかそのとき感情を失った(多分)。気持ちが止まった。

 姉が闘病の日々を過ごしていた新宿駅近のJR東京総合病院でのある夜、10月に入り風も涼しくなっていたのであいていた窓を閉めようとした。そしたら、

「電車の音がさ、懐かしいから窓あけておいてよ」

と姉が言った。新宿駅近の立地、時折どころかしょっちゅう聞こえてきた。「ガタンガターン、ガタンガターン」 いやあーーーびっくりしたなー私も、同じこと思っていたから、、、。

 きょうだいってうんと仲よしでなくても、気づいたら同じ環境で暮らしてきた仲間だったのだと、その時実感した。血のつながりとか同じ親から生まれた、とかではないかもしれない。気づいたら、自分らが選ばずして同じ環境に置かれ、生活を共にしてきた。国鉄マンの父の元に生まれた私と姉は、いつも電車の音のする社宅で暮らしてきた。とんでもなく懐かしい電車の音が私たちの軌跡をつないでいた。

 姉は電車の音のする病室で、時に痛みに耐えかねて私のカラダにぎゅーっとしがみつくこともあった。最期はつれあいの義兄に看取られ旅立った。「ガタンガターン、ガタンガターン」私たちの子ども時代の軌跡となった記憶の音と共に。
 (表紙の写真は、2018年5月6日に偶然撮影できたくまモン地下鉄の車両!!地下鉄は、ガタンガターンじゃなくて、ゴゴゴーーーゴゴゴーーってっかんじだけど。背景の緑色は、父の元勤務先である国鉄=現JR東日本の色を意識しましたよー(笑))

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