「日曜の朝はお寝坊させてあげる」5-2022/04/17
今日は、父の命日。サヨナラしてから28年だ。父の命日は、バッテラを買ってきて食すという習慣が続いている。父の好物だからだ。だが、母の命日は特別なことをしない。今年は羊羹を食べた。しかも、非常時に役立つに違いないと仏壇に虎屋の羊羹を常備しているのだが、その賞味期限が近かったのでそちらをツレといただいただけだ(笑)。父の命日には、なにがなんでも父の好物を買ってくるのに。実は、いつも母のことばかり思い出して、それほどには父を思い出さないので後ろめたいのだ。あーお父さんごめんねー忘れていないよーという気持ちからのバッテラだ。
noteに自分のことを書こうかと思ったのは、過去の自分や自分を取り巻いていた環境を忘れないうちにメモメモと思ったからだ。だが、そうそう、自分の中にいちおうテーマもあった。Hirano Sachikoはどんなふうに、赤ハナクラウンさっちーになっていったのか、探ってみたいと思ったからだ。母のようには思い出さないと書いてしまった父だが、このテーマを今一度思いながら、しみじみと私の父は優しかったんだ~と思い起こした。
わが家の日曜の朝は、父が朝ごはんをつくってくれた。昭和の時代の朝ごはん。ごはんに味噌汁、一汁一菜というやつだ。国鉄マンのサラリーマン家庭、質素に暮らしていたと思う。父がつくってくれた朝ごはん、正直そんなにおいしかったという記憶ではない。ただ、時々腕を振るうザ・お父さんの料理、、、ともちがった(そのバージョンもあったので、これはまたあらためて)。
「えーーお味噌汁にトマトーー?!」とか。サバ缶水煮入りごった煮とか。庶民家庭のわが家、お安いサバ缶は買いだめされていたのだろう。それに、冷蔵庫にあった野菜をぶちこんだ煮物。なんかいつもぐちゃぐちゃとして茶色かった。でも、見映えはよくないのに案外味はわるくなかった(笑)。どうやって作ったのか、今作ろうと思ってもできそうにない。
日曜の朝ごはんを作る父の言い分は、
「日曜日はお母さんをお寝坊させてあげなくちゃ」
だった。
早起きの父は、母の朝ごはんを待っていられなかったので自ら作ったのだ。日曜の朝、父はごはんの前に駅までスポーツ紙を買いにも行った。平日通勤時に買うスポーツ紙だ。父は、スポーツ観戦好き、とりわけ野球好きだった。国鉄スワローズ時代からのスワローズファンだったから、一時スワローズ球団をもった新聞社のスポーツ紙。私はいつも付き合わされた。なにかお菓子を買ってもらえるので、そこそこ喜んでついていき、「ステッキベビー」と呼ばれた。私はあんまり覚えていなかったのだが、最近になってイトコたちと思い出話をするようになった時に言われた。新聞買いに行く途中で、雀が何羽見えたかとか烏がいたとか、そういうクイズしながら日曜の朝駅まで歩くって言ってたよねって。そうだった、そうだった。父は何でそんなこと思いついたのか、もう聞けないが、案外そんな父からのふり、楽しかったなあ。
父の日曜の朝ごはんの思い出は、1960年代の半ばから70年代の話。世の中は、夢の超特急新幹線が走り出し、1回目の東京オリンピックも行われた高度経済成長期の真っただ中。右肩上がりといわれたこの時代、サラリーマンの父が定時で帰宅することはなく、平日いっしょに晩ごはんを食べた記憶はない。ましてや、父が家事をする姿もない。母は専業主婦であり、男女分業役割のわが家だった。だが、日曜の朝ごはんのせいで、父が外での仕事しかしない?できない?という男のイメージはない。大きくなってから(中高生以降かな)性別分業役割の家庭で育った友人の話を聞いていると、父親のイメージがわが家とはだいぶ違うと気づいた。自分の父親が特別だったとは思わないけど、少なくとも稼いでいるかどうかだけで威張ったりすることはなかったように思う。家庭では母を尊重し、母はお菓子作りや趣味の押し絵にも勤しみ、父に感謝していた。でも、私の知らない二人の関係性もあったんだろうなあ。おとなになってから一人のおとな目線で、二人の関係性をもっと聞いてみたかった。
(表紙の写真は、私の誕生日のツレからのプレゼントごはん。手づくりではありません(笑)。菜花とトマトは我孫子産のいただきもの。)