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“時間”だけを問題にしない『働き方改革』を実現する組織開発
労働時間の規制が進んでいます。2024年は、トラックドライバーの上限規制で話題となりました。
さらに、副業による超過勤務や、スキマ・バイトの連続勤務などについても、誰が、どのように管理するのかが問題になっています。
総理大臣に“働き方改革”はないのか?
例えば、アフター5にジムに通って体に負荷をかけても、それが問題視されることはありません。
あるいは、総理大臣がアメリカで会談し、帰国直後に国会で答弁したとしても、誰も咎めることはありません。
さらに、土日に大学院に通うなどすれば、むしろ称賛されます。
これらにも、肉体的・精神的負荷が、かかっているのではないでしょうか。
確かに、長時間労働が、人体に多大な負の影響を与えることは事実でしょう。そして、それによって引き起こされる事故が、人命を奪うこともあります。
しかし、だからと言って、一律に規制することが、本当に正しいのでしょうか。
おそらく、労働時間において規制されるべきは、本人の意志でコントロールできない時間であるように思われます。
例えば、規定時間数を超えたかどうかよりも、むしろ、前夜に深酒をしたり、疲労が溜っていたりしたら、勤務時間数に限らず出勤させないなどのほうが、よほど合理的であるように思われます。
これは、例えば、パートの掛け持ちをしなければ生活を維持できない人の立場を慮るといったこととは、別の議論でしょう。
偏った見方で踊らされていないか?
日本は、GDPで見れば、世界屈指の生産量を誇っていますが、労働生産性は、世界的にみれば、中位にあるとされます。
人口は12位なので、この差は、人口インセンティブだけでは説明できません。すなわち、残業に頼って稼いでいるという構図が、浮かび上がってくるわけです。
しかし、労働生産性が最も高いルクセンブルクは、主に金融業によって稼いでいます。すなわち、「金が金を呼ぶ(何も生産しない)」ことが、労働生産性を高めると言う側面もあるのです。
したがって、単純に経済指標のギャップを埋めるために、「働きすぎ」と断じるのは、いささか的を外した議論であるように思われます。
「動物は、なぜ、眠るのか?」という問には、明確な答えがないそうです。しかし、「動物は、なぜ、起きるのか?」という問に対しては、エネルギー補給と繁殖のためと、明確な答えがあるそうです。(そこから、生物学的リズム・体内時計・睡眠サイクル・環境要因・ 心理的要因・社会的要因などが指摘されているようです)。
ちなみに「エネルギー」とは、栄養(食物)ばかりではなく、知的エネルギー(娯楽等)も含まれるでしょう。また「繁殖」には、社会性の維持なども含まれるものと考えます。
余談ですが、「不要不急」とは、本来、このような視点で捉えられる必要があり、単純に感染学に則った見解だけに依存した場合には、使用すべきではなかったように思われます。
さて、それでは「働きすぎ」とは、どのような状況を指すのでしょうか?
個人の“欲求”に依存していないか?
組織が「意識的調整されたシステム」であるとしたら、この意識とは、意志と置き換えても良いように思われれます。
そしてその“意志”は、責任から発せられるものではなく、自らの欲求に起因するものである必要があるでしょう。
しかし、医学的な自己管理を、個人の責任とするのは難しいでしょう。アドレナリンが放出していれば、人は疲労を感じないからです。
例えばコーチングは、週単位あるいは月単位で受けることが珍しくありません。おそらくカウンセリングも、同様の頻度で実施することが望ましいと思えます。
とくに身体的技能を必要とする場合は、身体的条件(反射・注意力等)の検査を加える必要があるかもしれません。そして、人命にかかわる業務(運転士等)では、現在、呼気検査の就業前実施が求められていますが、同様に取り扱う必要があるかもしれません。
おそらく、組織としての体制は、このように、主に医学的見地からの対策になると思われます。
しかし、そもそもメンバーに、欲求をもたらす動機がなければ、この施策も無意味となるでしょう。
とくに重要なことは、欲求無き者に、過大な労力を強いてはならないということです。本人の意志でコントロールできない時間は、法規制通りとしなければならないのです。
人それぞれの“時間”
現在の労働時間に対する捉え方は、一般社員は単位時間当たりの労働生産性が求められ、管理職は労働生産性の範囲外に置かれているように思われます。なぜなら、管理職には、残業手当がないからです。
しかし、労働時間に対する規制から逃れても良いと思われるのは、おそらく役員クラスだけでしょう。
それは、現在の労働法規が準拠しているマルクス主義に照らしても、そこでは労働者対資本家という構図で語られています。すなわち、管理者も、この構図で言えば、労働者側と言えるのではないでしょうか。
そうであるなら、労働時間の問題は、非役員全員を対象としたものである必要があるように思えます。
そのためには、すべてのメンバーが、労働時間を、自分の時間とできるような仕組みが、今、求められているように思われます。
なお、自らの意志、そして、それに紐づく欲求については、「自己実現も自己責任もないキャリア開発」をご参照ください。
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