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“許し”から始める組織開発
リスクマネジメントの一環として“謝罪”が捉えられるようになって以降、いたるところで謝罪会見が開かれています。なかには、却って“炎上”を招いたり、国民から“No”を突き付けられたりしたものもありましたが、そもそも謝罪を、ビジネススキルとして総括してしまっても良いのでしょうか?
相手視点で語る
謝罪とは、何でしょうか。大抵の場合は、過ちや失敗に対して謝る、行為や言葉を指すでしょう。しかし、「謝罪」の説明に「謝」という言葉を使ってしまっては、何だか説明になっていないような気がします。
そこで、「相手に対する敬意と誠意をもって、他者に迷惑や不快感を与えたことを認め、再発防止の意思を伝えることで、許しを求めること」などされるのでしょう。
しかし、これでも十分ではないような気がします。それは、この説明の主語が、「私」になっているからだと思われます。
まず、「相手に対する敬意と誠意をもって、他者に迷惑や不快感を与えたことを認める」とは、真実を包み隠さず語ることでしょう。
しかし実際は、「この程度の説明で勘弁して欲しい」と思ったり、「これ以上のことを話すと、誰かに別の迷惑をかけることになる」などと考えたりして、到底“包み隠さず”とは言えないような内容になってしまっているのではないでしょうか。
これでは、相手が、最も大切にしていること(最も知りたいこと)に答えることには繋がらないでしょう。
謝罪するためには、自分にとって都合の悪いこと(自分の状況をさらに悪くすること)であっても、自分の罪そのものとは関係が無いと思うことであっても、相手がそれを求めるのであれば、その感情を越えて語らなければならないのだと思われます。
これがあって初めて、敬意と誠意を示せるのではないでしょうか。
相手の納得を得る
さらに、謝罪には、反省の意が込められていることも必要でしょう。すなわち、自身の犯した過ちや誤りを認め、再発防止に向けて自身を改善するための努力や態度を示すことです。
しかし、「盗人にも三分の理」のごとく、言い訳が先行し、過ちや誤りを認めていないかのように語られることがしばしばです。ましてや、再発防止に向けた意志なども、「気を付けます」程度のことで済ますことが多いのではないでしょうか。
本来であれば、相手が認めるように要求した内容を、はぐらかさずに認めることが必要です。そうでなければ、仮に「気を付けます」と言ったとしても、それが“何を”気を付けるのかさえ明確にはならないからです。
このように反省では、相手の感情に従う側面と、論理的であるべき側面が混在しています。
ここで論理を中心に置いてしまうと、相手の感情を損ねることになります。したがって、まずは相手の感情に従い、それから論理的に改善案へと繋げていくことが必要でしょう。
謝罪とは、自分の立場を表明する機会ではなく、相手が納得できるように説明する行為でしょう。そうであるなら、相手の感情を受け止めることと、論理的に説明していくことは、双方が含まれているべきだと思われます。
そうでなければ、その謝罪が、相手の許しを得る行為とはならないでしょう。
ただ、リスクマネジメントとしての対応方法では、論理が重要視されるのですが…。
“罰”が争点となる「ビジネス謝罪」
ここまでの論では、責任という側面に触れてきませんでした。なぜなら謝罪は、それ自体、責任論ではないと考えるからです。
すなわち謝罪は、相手の許しを得る行為であって、責任を問う行為ではないからです。
しかしビジネスでは、責任の上に「許し」が成り立ちます。したがって「ビジネス謝罪」では、責任に基づく“罰”が課せられていきます。
一般論としての謝罪は、反省に基づく許しでした。しかし、それが“罰”に基づく許しとなる場合は、当然に、相手の感情を反映した“罰”になる必要があります。ただし、それは「責任」の大きさに見合ったものとなるでしょう。
同じ被害を受けた者であっても、その捉え方は人それぞれです。したがってB to Cでの謝罪では、法によって責任の大きさが判定されることになります。だから、「刑が軽すぎる」といった感情論が沸き起こってくるのでしょう。
しかし、B to Bでの謝罪はどうでしょうか。もちろん、法に基づくこともありますが、その場合は、責任の範囲を限定できるように、手練手管が講じられることになるでしょう。
ただ、多くの場合は、このような事態にまでは至らないのではないでしょうか。それは、その“罪”が、信用と責任のバランスの中で判断されるからだと思われます。換言すれば、今後の取引継続を前提にした話し合いがなされるということです。
このようにB to Bの場合は、今後も“良好な”関係を続けるという善意があるため、その善意に応える提案が、すなわち謝罪になっているように思われます。この観点であれば、リスクマネジメントとしての謝罪も、一定の効果があると言えるでしょう。
組織内での謝罪
さて、同じ「ビジネス謝罪」であっても、その対象がメンバー間(身内同士)の場合では、責任のみが本質になると思われます。
すなわち、謝罪は行動変容の起点になるものとして捉えられ、本質的に信用は失われないものとなるでしょう(もし、信用さえ失ってしまうようであれば、その者は、組織から離れていかざるを得ないことになります)。そして“罰”受けることで、その責任を果たし、それですべてが完結することになります。
ここで重要な視点は、組織合理性(生産合理性)が、責任の範囲を決定すると言うことです。すなわち、相手(被害者)の感情は、原則、与されないということです。
だからハラスメント事案などは、法的な場面で争われることになるのだと思われます。
ちなみに、子が罪を犯した場合、親は子に謝罪を求めるでしょう。しかし、ここには“罰”はあっても、責任までは求めないないのではないでしょうか。仮に“責任”という言葉を使ったとしても、それは教育的立場からであって、真の“責任”ではないはずです。
例えば、子が茶碗を割ったとしても、後片付けという“罰”(同じ過ちを繰り返さないようにするための教育的見地からの戒め)を与えながら「自分の“責任”で片付けろ」と言うかもしれませんが、「自分で買って来い」とまで言わないでしょう。
ところで、実際の職場でも、同じような対応がなされていませんか。そして、それは温情的なニュアンスで行われているのではないでしょうか。
もし、そうであれば、そうであるからこそ、罪を犯した者も、被害者も、そのことをいつまでも引き摺ってしまってしまうのかもしれません。
未来のための“謝罪”
“ゆるす”には、「許す」と「赦す」という2つの漢字があります。意味としては、概ね同じようなものですが、前者は日常的な範囲で、後者は法律や戒律など、少し荘厳な範囲で使用されるとされています。
しかし、前者には、「許可」など、未来に向かった行動への“ゆるし”が含まれ、後者にはそれが感じられません。ただ、「犯した罪を償った」に過ぎないもののように感じられます。
だから謝罪では、前者であるようにすべきではないかと考えます。そうでなければ、いつまでも過去を引き摺り、前に進むことができなくなるからです。
ここから、謝罪とは、罪を犯した者も、被害者も、双方がともに、それぞれの未来に進むための行為と捉えることができるように思われます。
それは、双方が信頼を失わないように”かかわる”ことから始まるものであって、信頼があるからこそ、始められるものであるように思われます。
謝罪が単なる“禊(みそぎ)”で終わってしまうようでは、とても信頼を回復することはできないでしょう。
ここまで読了いただき、ありがとうございました。
なお、相手視点のコミュニケーションについては、「ビジネス対話~コミュニケーションに悩んだら」をご参照ください。
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