【偶然性と運命——野球を「哲学」する】vol.2 物語られる野球

 「阪神の連敗がとまったらノートを再開しよう」——そう思って気が付いたら、9連敗。開幕9連敗というのは、セリーグワーストということで、凄い記録だ。打線が特段元気がないわけでもない、先発はそこそこゲームを作っている、それでも勝てない。(もちろん打線がダメな日も先発がHR打たれる試合もあったわけだが。)こういうところに、野球の面白さと怖さがある、つくづくそう思わされる9試合だった。結論、点を取られなければ負けることはない、ということ。西投手、しびれました。

 さて、前回は5番糸原論争——もはやその論争は連敗という大イベントを前にかき消された、というよりも矢野監督が早々と5番糸原をあきらめてしまったこともあって、話題にならなかった?——を扱ったが、今回は連敗という格好の題材を前に何を語るか、というところである。そこで、連敗脱出時の矢野監督のこのコメントから、はじめよう。

「本当にうまくいかないことばっかりですけど、テレビをご覧の皆さんもうまくいってる人生を歩んでいる方ばかりではないと思うんでね。僕たちの、そういうもがきながら、苦しみながら前に進む姿から、なんとか元気を届けられるような、そういう気持ちでみんな戦ってるんだろうと思います」

 テレビを見ていて、この発言には驚かされた。なにせ、「テレビをご覧の皆さん」と、(名前で呼ばれたわけではないにしても)名指されてしまったからだ。そして、自分の人生を振り返る。確かにうまくいかないことも多いし、それでも連敗中の選手が次の日も試合に向かい合わなければならないように、前に進むことを余儀なくされることもしばしば。とはいえ、さすがに開幕9連敗になぞらえるほどの悲惨な人生でもないぞ?とも思ったりする。

 何はともあれ、矢野監督がここで行っているのは、プロ野球のシーズンを人生になぞらえることである。それは、勝ったり負けたり、成功したり失敗したりを繰り返しながら、毎日を必死のパッチで歩んでいこう、というハートフルなメッセージとしてひとまず理解できるのだが、本日はこの点を掘り下げてみたいのである。今回のテーマは、人生という「物語」をアナロジーとして、プロ野球を語ってみる、ということだ。

人は物語を必要とする――9連敗という出来事はどのように物語に昇華するか?

 いきなり「物語」という概念の考察をはじめるなど、論文でもないのだからやめておきたい。手始めに、9連敗という身近な事例から始めよう。

 優勝を願う今日の阪神ファンにとって、9連敗という事実は受け入れがたい。なぜなら、この時期の「借金8」(4月5日試合終了時点)は、優勝を目指すにはあまりにも致命的だからだ。かといって、優勝の可能性自体は残されている。前回のノートでも扱ったように、世界線は複数あるわけで、どの世界線が現実と化すかはまったくの「偶然」である。(その偶然を人々が受け入れていく過程で、それは「運命」の様相を帯びたりすることがある、という話が前回なされたとおりである。)巨人が9月に10連敗する可能性も、交流戦でセリーグがのきなみ失速して阪神が独り勝ちする可能性だって、確率は低かろうが存在する。

 さて、仮にそうした「偶然」の積み重なりがあって、阪神が優勝したとしよう。このとき、先の9連敗は、どのような出来事となるだろうか。差し詰めこの出来事は、「逆転優勝の伏線だったのだ!」と思われるのではないだろうか。また、対照的に阪神がぶっちぎりの最下位に沈んだとしよう。その地点から9連敗という出来事を眺めれば、それは今年の阪神の低迷を象徴するものとして、批判的に論じられるはずである。

 このように、出来事の意味は、その出来事が生じた時点では確定しないことの方が多い。優勝したという時点から眺めれば「逆転への伏線」であり、最下位という時点から眺めれば「諸悪の根源」となる。同じ9連敗であっても、その意味することは、異なるのである。こうしたことは、人々のライフヒストリーにおいても生じているのではないだろうか。例えば、第一志望の大学に落ちたことで、浪人した結果、予備校で出会った人と恋に落ちたとするなら、大学不合格・浪人という出来事は、ポジティブな意味を表すように思われる。これとは逆に、うまくいっていたことが反転してしまうことも往々にしてあるだろう。

 このように考えると、ある出来事(9連敗)の持つ意味は、特定の時系列における別の出来事(優勝ないし最下位など)との関係によって規定される、といえるだろう。そして、有意味な出来事によって紡がれた一つの体系のことを、ここでは「物語」と呼ぶことにする。また、先回りして重要なことを述べておけば、物語を構成するのは「有意味な出来事」である。出来事は、日々無数に起こっている。物語は、ある筋を描き出すうえで意味のある出来事と意味のない出来事を選別し、意味のある出来事の連鎖として構成される。例えば、優勝したチームの1シーズンを物語として描き出すとき、選ばれる出来事は勝った試合がほとんどであるはずだ。(負けた試合が選ばれる場合、それはその先の勝利につながる伏線として選び出される限りにおいて意味がある。単純に負けた試合は、物語から排除されるだろう。)また、試合もまたひとつの物語となりうる。野球中継の「今日のハイライト」は、この試合の展開を左右する場面を抽出するものとして、「〇〇が勝った試合」という一つの物語を描き出している。ある選手のエラーが取り沙汰されたりされなかったりするのは、そのエラーが勝敗に直結したか否かに左右されるということでもある。

 勝った負けたを競う野球において、物語という観点は不可欠である。前回の「運命」の話にもあったが、偶然にすぎないプレーが試合の展開を決定づけるとき、そのプレーは運命だ!と事後的に措定される。無数に生まれる出来事のうちに、物語を方向付ける決定的な意味が賦与されるとき、そのプレーは運命となる、と言い換えられよう。まさに、運命と物語は不可分な関係にあるといえる。

 一方で、物語は特定の出来事を特権視する分、他の出来事を排除してしまう。この点が、見逃した試合の結果をスポーツニュースで見る人と、試合を録画して後から追いかける人の違いにあらわれるのかもしれない。録画してまで野球を見る人というのは、物語にはならない出来事をこそ目撃したいという、ある種のマニアックな心性によるのかもしれない。あるいは、リアルタイムで試合を見るときは、当然ながら物語のフレーム(どっちが勝ったとか、このプレーが得点に結びつくか)が与えられていない生身の出来事とつねに直面する。この点は、前回引用した宮野さんの「美しさ」に通じる問題を示している。この出来事は意味づけられるのか否か?外部に超越的な審級を用意する手前にある生身の出来事は、無数の可能性を示すとともに、次なる出来事との関係において一つの「運命」へと収束する。「未決定の出来事A→次なる出来事Bの出現→出来事Aが意味づけられる→出来事C→出来事Bが意味づけられる→出来事D……」というように、偶然と必然は出来事の連鎖において常に交錯する。ましてその出来事の連鎖の果てに「逆転サヨナラ勝ち(負け)」などが用意されていようものなら……。(ケラー投手が不憫でならなかったのは、出来事の負の連鎖の真っ只中にいきなりぶち込まれてしまったことであり、あげく彼の引き起こした出来事は序盤の8得点という出来事をもろとも再意味付けすることになってしまった、ということ。そうした重荷を背負うポジションを、湯浅投手にはなんとか耐えてもらいたい。)

 以上を踏まえると、ある一つの出来事がいかなる意味を持つかは、その先の出来事との関係で紡がれる物語によって規定されるのであり、9連敗という事実をどう引き受けるかは、今後の阪神タイガースにかかっているということになる。(なんという楽観的な意見か!)
 当然このことは、ライフヒストリーにも言えることだ。今ここで生じた過ちや失敗は、その先の出来事との関係で挽回できるかもしれないし、場合によっては一生の汚点としてつねに影を落とす出来事になるかもしれない。あるいは、その出来事はこの先描かれる物語において、大して意味を持たないものとして忘却されるかもしれない。というのも、物語は複数的に編み出されるからだ。このことは、アイデンティティの根本的な複数性を示唆している。つまり、アイデンティティを生まれや使用言語、性別といった一見固定的な要因に還元せず、「私」の他者との共同作業としての語りにおいてその都度生み出されるものとして理解することが可能となるといえる。(この点は、フランスの哲学者ポール・リクールによる「物語論的自己」の問題が示唆的である。)


 さて、今回は「物語」という観点から、9連敗という出来事を考えてみた。結局のところ、意味なんて今求めても仕方がないということだ。なんだか前回の結論(糸原の打席を楽しみましょう、的なオチ)同様、曖昧な結論に思われるかもしれないが、この曖昧さが私を野球へと導くのだと思う。次回は何を扱うか考えていなかったが、出来事はいつ意味を持つのか、との問いが残されているように思う。(物語が先にあって出来事を意味づけるのか、出来事が意味を持って立ち現れるところに物語が「浮かび上がる」のか。)この点について、次回は歴史哲学の知見などを借りながら迫ってみようと思う。ひとまず今日は、先発の伊藤投手が紡ぎだすであろう無数の出来事に、目を凝らすことにしよう。

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