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原一樹さん、お疲れ様でした。私は2011年最終節のハーフタイムを忘れない。

9月29日、おこしやす京都ACのFW・原一樹選手が引退を発表した。

松飛台SC、まつひだいクラッキスから市立船橋高校に進み、駒澤大学を経て07年シーズンから清水エスパルスに加入。J1リーグ通算72試合11得点、J2リーグ通算235試合で69得点、J3リーグ通算21試合7得点と、全てのカテゴリーで得点を重ねてきた。

原選手の年度別成績(Jリーグ)は以下の通り。

07 清水(J1) 1試合0得点
08 清水(J1) 26試合6得点
09 清水(J1) 25試合3得点
10 清水(J1) 10試合2得点
11 浦和(J1) 10試合0得点
12 京都(J2) 26試合6得点
13 京都(J2) 27試合12得点
14 北九州(J2) 42試合7得点
15 北九州(J2) 41試合13得点
16 北九州(J2) 33試合16得点
17 讃岐(J2) 31試合7得点
18 讃岐(J2) 35試合8得点
19 熊本(J3) 20試合7得点

2020年シーズンからは関西一部のおこしやす京都ACへ移籍していた。今回の投稿記事は、そんな原選手へ、引退を発表した原選手へ。浦和レッズサポーターの一人からの小さな、だけど忘れられない思い出。
(以下、敬称略)

市船から駒澤へ。学生王者の道を歩み

原一樹は千葉の強豪・市立船橋高校(通称・市船)から駒澤大学へと進学した。

市立船橋では3年時の2002年度高校サッカー選手権で優勝。決勝戦では当時2年連続で選手権を制していた国見高校の、戦後初となる大会3連覇を阻止した。

強烈なロングシュートで決勝ゴールをマークしたMF小川佳純や、DF小宮山尊信、大久保裕樹、青木良太など高卒でプロ入りした選手は原と同学年の3年生。1学年下にはDF増嶋竜也、FWカレン ロバート、MF鈴木修人といった面々がレギュラーとして活躍していた。

ちなみに国見にはFW平山相太、MF兵藤慎剛、柴崎晃誠、中村北斗、GK関憲太郎など、こちらもプロで長らく活躍することになる選手が顔を揃えていた。

大会優秀選手にも選出された原は、関東大学リーグの駒澤大学へと進学。2年時から4年時まで大学選手権(インカレ)3連覇を経験することになるが、4年時は高校選手権決勝の相手・国見出身の巻佑樹と2トップを組んでいた。

巻は元日本代表FW・巻誠一郎の弟で、兄と同じくヘディングと泥臭さが武器の長身ストライカー。駒大がロングボール中心の戦術を取っていたこともあり、巻を抑えるタスクが求められる中で、組み立ても前プレも突破も裏抜けもフィニッシュも出来る原は、対戦相手にとって非常に厄介な存在だった。

原は大学卒業後、J1の清水エスパルスへと加入することになる。

1試合平均約1得点。驚異の得点率

原一樹のプロキャリアを語るとき、外せないトピックがある。1試合平均の得点率。引退に際し、日刊スポーツではこのような記事が出ていた。

千葉・市船橋高、駒大を経て07年に清水入り。Jリーグでの“得点率”は驚異の2割9分1厘を誇る生粋のストライカーとしてキャリアを歩んできた。

引用元:日刊スポーツ「おこしやす京都FW原一樹 今季限り引退 Jでは驚異の“得点率”点取り屋」(2021年9月29日配信)

この“得点率”の詳細な計算方法はわからないものの、出場時間あたりの得点力が高いというニュアンスだと思う。
J1-J3通算では出場時間17,951分で87得点。得点数÷出場時間×90(分)で換算した90分あたりの得点は0.436という数字になる。(データ参考:J.LEAGUE Data Site

原の場合はシーズン最多得点がJ2・ギラヴァンツ北九州時代の16得点と傑出しているわけではないが、出場時間がそこまで多くないので短い時間で結果を残していることがうかがえる。

それが最も顕著に表れているのが、京都サンガF.C.(J2)でプレーしていた2013年だ。

原一樹の2013年シーズン

出場試合数:27(先発12/途中出場15)
出場時間:1,165分
得点数:12(チームトップ)
シュート数:42(チーム5位)
90分あたりの得点:0.927

データ引用元:Football LAB

リーグ戦は全部で42試合。全試合フル出場を果たしたGKオ スンフンの出場時間は、原の3倍以上となる3,780分にのぼる。

シュート成功率も高かった

短い出場時間の中でも結果を残した原の凄さを90分あたりの得点が物語る中、シュート数42本で12得点、すなわち4本に1本以上で決めている成功率(28.57%)の高さも特筆すべきだろう。ちなみにJ.LEAGUE Data Siteの集計ではこのシーズンのシュート数が29本となっており、この数字で計算すれば成功率は41.38%まで跳ね上がる。
5本打てば2本はゴール。サッカーをやっていた人ならばいかに凄い数字かわかるはずだ。

J.LEAGUE Data Siteで記録されている原の通算シュート数は417本。総ゴール数を417で割った通算成功率は20.86%となる。J1,J2通算最多の220得点(2020年終了時点)の佐藤寿人が22.26%、同通算177得点の大黒将志が17.79%ということを考えると、原の“決定力”はトップレベルにあるといえる。

京都を退団した後は北九州、讃岐、熊本と30代で渡り歩いたが、どこのチームに行っても「出れば(結構の割合で)決める」、計算できるストライカーとしてサポーターの信頼をつかんでいった。一方で出場時間がそれほど伸びなかったということは、長い時間使われないだけの理由もあったのかもしれない。
ただ、外野からしてみれば、もっと使えばいいのに…と思っていたこともまた事実だった。

2011年12月3日

原一樹が清水エスパルスから浦和レッズへやってきたのは2011年だった。
ゼリコ ペトロヴィッチが監督に就任し、両翼をワイドに使うアタッキングサッカーを標榜したものの、低空飛行を続けて途中解任。FWエジミウソンが夏に移籍したこともあり、最終節の直前まで残留争いに巻き込まれた、あのシーズンだった。

スピード豊かなアタッカーという触れ込みで加入した原だったが、当時の浦和には元祖ワンダーボーイの田中達也やマゾーラといったドリブラー、また若き日のエスクデロ セルヒオ、梅崎司、原口元気といった面々が縦への突破を武器にしたスピード系の選手として揃っていた。6、7月ごろに一旦は主力として起用されたものの、ゼリコの信頼を得るには至らなかった。

10月15日、大宮に敗れて任を解かれたゼリコ ペトロヴィッチ監督の後を受けた堀孝史体制になっても原の序列は低いままだった。しかし11月16日の天皇杯・東京ヴェルディ戦(2-1)で原は2ゴールを挙げて浦和を勝利に導き、リーグ戦でもメンバー入りするようになる。直後の第32節・仙台戦、J1残留を決定的にした第33節・福岡戦では短い時間ながらもピッチに立った。そして浦和は最終節、首位の柏レイソルをホームに迎えることになる。柏は勝てばJ2から昇格していきなり優勝という快挙がかかる。

福岡戦で負傷したセルヒオを欠く状況の中、堀監督はFW登録なしのゼロトップで臨んだ。MF6人。山田直輝が形式的に最前線に立ってはいたものの、ズルズルと降りざるを得ず、柏にやりたい放題を許した。
CKから2失点して0-2。シュート数は浦和が0、柏が17。目の前で優勝なんて見たくない。そんな感情を抜きにしても、あまりにも悲惨な前半だった。

あの時、確かに空気が変わった。

ハーフタイム、だったと思う。
不甲斐ない戦いぶりに重苦しい雰囲気が漂っていた埼玉スタジアムは、痺れたように一人の選手の名前を連呼する。

(ドンドンドン)一樹!(ドンドンドン)一樹!!(ドンドンドン)一樹!!!

キャプテン翼(37巻)で中3の翼くんが日本代表に選出され、ベンチに座っている中で、大量リードされた日本サポーターが翼コールで彼をピッチに立たせたシーンがあったと思うが、コールで誰々出せよと選手起用に注文をつけるなんてことは、本来あってはならないと思う。

けれど確かにあの時、あの前半には閉塞感しかなかった。それを変えてくれるのはFW登録でベンチにいたマゾーラ、そして原一樹くらいしか考えられなかった。そして原は後半開始から直輝と代わってピッチへと立つ。

もっとあなたの名前を叫びたかった

流れは変わった。53分、平川忠亮のクロスに柏木陽介が合わせて1点差。ニアに入った原がDFをつったことで空いた中央に、陽介が勇気を持って飛び込んだ。

雰囲気は間違いなく変わった。76分に柏の茨田陽生にドライブのかかったミドルを食らって万事休すとなるわけだが、それまでの20分間は期待しかなかった。優勝を狙う柏を、押し込めていた。あの時の手応え、高揚感は10年経った今でもはっきりと覚えている。潮目を変えたのは間違いなく、原一樹の投入だった。

最終節から2週間後の天皇杯・愛媛FC戦でも原はゴールを決め、天皇杯4試合で4得点。リーグ戦では得点がなかった一方で、エジミウソンなき後の浦和でしっかりと爪痕を残した。

けれど、彼の名前をスタジアムで叫んだのはそれが最後だった。2012年に京都へ期限付き移籍が発表されると、翌年には完全移籍。サンガでの活躍は上に書いたとおり。もっと一緒に戦いたかった。


原一樹選手のプロキャリアで見れば、浦和で過ごした時間は決していい思い出ではなかったかもしれない。
でも、京都に、北九州に、讃岐に、熊本に行ってからも、出場選手に一樹選手の名前を探していたし、得点していたのを見つければ凄く嬉しかった。おこしやす京都が今年の天皇杯で躍進したときも、まず最初に思い浮かんだのは「原一樹がいるおこしやす京都」だった。

ジャイキリに怯えながら臨んだ天皇杯で勝ち抜く喜びを教えてくれ、12月3日のあの日、勇気と希望を与えてくれた一樹選手。

ストライカー生活、長い間お疲れ様でした。ありがとうございました。
陰ながら今後も応援しています。


参考サイト:
J.LEAGUE Data Site
Football LAB
YouTube Jリーグ公式チャンネル
タイトル画像:
Free-PhotosによるPixabayからの画像 

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