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【4000文字レビュー】映画「正体」徹底レビュー|横浜流星が魅せる多面性と人間の本質 – あなたは、本当に自分を知っていますか?

はじめに

2024年11月29日に公開された映画『正体』は、染井為人の同名小説を原作とし、藤井道人監督が手掛けた作品です。横浜流星が主演を務め、吉岡里帆、森本慎太郎、山田杏奈、山田孝之らが共演しています。本作は、一家殺害事件の容疑者として死刑判決を受けた青年の脱走劇を描いたサスペンス作品ですが、単なる逃亡劇にとどまらず、人間の本質や社会正義について深い問いかけを投げかけています。本レビューでは、『正体』の魅力を多角的に分析し、作品が提示する重要なテーマについて考察していきます。


あらすじ

あらすじ

18歳の鏑木慶一(横浜流星)は、東村山で起きた一家3人殺害事件の容疑者として逮捕され、死刑判決を受けます。
しかし、拘置所での自傷行為をきっかけに病院へ搬送される途中、鏑木は脱走に成功します。
こうして始まる343日間の逃亡劇が、本作の核心となります。鏑

木は日本各地を転々としながら、巧みに5つの異なる人物像を演じ分けます。
大阪府住之江区では建設現場労働者「ベンゾー」として働き、同僚の野々村和也(森本慎太郎)と親密な関係を築きます。
東京都新宿区ではフリーのWebライター「那須」として活動し、編集者の安藤沙耶香(吉岡里帆)と出会います。長野県諏訪市では水産加工工場で「久間」として勤務し、さらに別の地域では介護施設「アオバ」で「桜井」として働き、職員の酒井舞(山田杏奈)と親しくなります。

一方、鏑木を追う刑事・又貫征吾(山田孝之)は、鏑木と接触した人々から証言を集めていきます。しかし、それぞれが語る鏑木像は全く異なり、まるで別人のようでした。
この状況は、又貫に鏑木の真の姿と事件の真相について深い疑念を抱かせることになります。

実は鏑木には、単なる逃亡以上の目的がありました。それは自身の無実を証明することでした。特に、事件の生存者である由子(介護施設に入所中)に接触し、真相を思い出してもらうことを目指していたのです。

物語が進むにつれ、鏑木と関わった人々は彼の真の姿に気づき始めます。最終的に、これらの人々が集まり、鏑木の無実を証明するための署名活動を開始します。又貫も誤認逮捕の可能性を認め始め、徐々に事件の真相が明らかになっていきます。

この343日間の逃亡を通じて、鏑木の多面的な人間性が浮き彫りになると同時に、彼を取り巻く人々の心の変化や、社会の持つ偏見、そして真実の複雑さが鮮やかに描かれていきます。『正体』は、一人の青年の逃亡劇を通して、現代社会における正義と真実の在り方、そして人間の本質に迫る物語なのです。

作品背景

『正体』は、『余命10年』や『青春18×2 君へと続く道』などのヒット作を生み出してきた藤井道人監督の最新作です。
藤井監督は本作の企画を4年前から温めており、綿密な準備期間を経て完成させました。

主演の横浜流星とは『青の帰り道』『ヴィレッジ』『パレード』に続く4度目のタッグとなり、両者の信頼関係が作品の質を高める一因となっています。

原作は染井為人による小説で、2021年に発表されました。染井は「未成年でも死刑になることがあると知ったこと」が執筆のきっかけとなり、さらに2018年に起きた「警察署から逃走して自転車で日本一周を目指した容疑者」の事件がストーリーを膨らませる契機になったと語っています。

特定のモデル事件は存在しないとされていますが、日本社会に実在する問題や事件から着想を得ていることが窺えます。
キャスティングにも注目が集まりました。主演の横浜流星は、本作で5つの異なる人物像を演じ分けるという難しい役柄に挑戦しています。この挑戦的な役柄は、横浜の俳優としての成長を示す機会となりました。共演の吉岡里帆、森本慎太郎、山田杏奈、山田孝之らも、それぞれ個性的な役柄を演じ切り、作品に深みを与えています。
撮影は日本各地で行われ、鏑木の逃亡を通じて日本の多様な風景が映し出されています。この多様な舞台設定は、鏑木の多面的な人格を表現するのに効果的に機能しています。

音楽面では、菅野祐悟が担当しています。菅野は『半沢直樹』や『ドラゴン桜』などの人気ドラマの音楽も手掛けており、その経験を活かして本作のサスペンス性と人間ドラマの両面を引き立てる音楽を制作しました。

本作は、冤罪や司法制度の問題、人間の多面性といった重いテーマを扱いながらも、エンターテインメント性を前面に押し出した作品となっています。PG12指定(殺害現場の流血描写による)ながら、幅広い層に訴求する日本映画の決定版として評価されています。

1. 多面的な人間性の探求

『正体』の最大の魅力は、主人公・鏑木慶一の多面的な人間性を通じて、人間の本質に迫ろうとする姿勢にあります。横浜流星が演じる鏑木は、逃亡の過程で5つの異なる人物像を演じ分けます。これは単なる変装の域を超え、それぞれの場所で出会った人々との関係性の中で、異なる人格を形成していくかのようです。

この設定は、現代社会における自己アイデンティティの流動性を象徴しているとも言えるでしょう。SNSやオンラインゲームなどのデジタル空間では、人々は容易に異なるペルソナを使い分けることができます。鏑木の5つの顔は、このような現代人の多面的な自己表現の極端な形態として解釈することができます。

さらに興味深いのは、鏑木と接触した人々が語る彼の姿が全く異なるという点です[2][3]。これは、人間の認識の主観性を浮き彫りにしています。私たちは他者を完全に理解することはできず、自分の経験や価値観を通して相手を解釈しているに過ぎないのかもしれません。この設定は、現代の情報社会における「真実」の捉え方にも一石を投じています。

同時に、鏑木の多面性は、人間の適応能力の高さを示唆しているとも考えられます。彼は状況に応じて自身の人格を変化させ、周囲の環境に適応していきます。これは、現代社会を生き抜くために必要なスキルの一つとも言えるでしょう。しかし、その一方で、真の自己とは何かという問いも投げかけています。

また、鏑木の多面性は、彼の内面にある葛藤や成長の過程を表現する手段としても機能しています。それぞれの「顔」は、彼の人生の異なる側面や経験を反映しており、彼の複雑な内面世界を視覚的に表現しているのです。

さらに、この多面性のテーマは、観客自身の自己認識にも影響を与えます。私たち一人一人の中にも、状況に応じて異なる顔を見せる多面性があることを認識させられます。これにより、自己と他者に対するより深い理解と共感を促す効果があるのです。

特筆すべきは、鏑木と出会った人々が最終的に集まって冤罪の署名活動を行うという展開です。沙耶香、和也、舞といった鏑木に接触した人々は、当初それぞれ異なる印象を持っていました。しかし、物語が進むにつれて、彼らの認識が徐々に収束し、ひとりの人間としての鏑木像に集約されていきます

この過程は、人間理解の深化を象徴しています。表面的な印象や断片的な情報だけでなく、時間をかけて相手と向き合い、その本質を理解していく過程が描かれているのです。鏑木の真の姿、つまり「正体」が明らかになるにつれ、彼と関わった人々は彼の無実を信じ、支援するようになります[1][11]。

この展開は、人間の多面性を認めつつも、その奥にある本質的な人間性を見出すことの重要性を示唆しています。同時に、社会正義や冤罪といった重要なテーマに対する人々の意識の変化も描かれており、個人の成長と社会の変革が密接に結びついていることを示しています。

結果として、観客は鏑木の多面的な姿を通じて、人間の複雑さと同時に、その本質的な善性を感じ取ることができるのです。これは、現代社会において他者を理解し、信頼関係を築くための重要な視点を提供していると言えるでしょう。

2. 正義と真実の相対性

本作は、一見すると「冤罪を晴らすための逃亡劇」というシンプルな構図に見えますが、実際にはより複雑な問題を提起しています。特に注目すべきは、刑事・又貫征吾の存在です。又貫は当初、組織の論理に従って鏑木を有罪に追い込もうとしますが、次第に真実への疑念を抱き始めます。この葛藤は、現代社会における「正義」の在り方に一石を投じています。法や制度によって定められた「正義」と、個人の良心に基づく「正義」が衝突するとき、私たちはどちらを選ぶべきなのでしょうか。この問いは、現代の司法制度や警察組織の在り方にも深く関わっています。組織の論理や効率性を重視するあまり、真実の追求が疎かになることはないのか。又貫の内面的葛藤は、このような制度的問題を鋭く指摘しています。さらに、本作は「真実」の捉え方についても問いかけています。鏑木の無実を信じる人々と、彼を犯人だと確信する人々が存在する中で、絶対的な真実とは何なのかが曖昧になっていきます。これは、現代のメディア社会における情報の扱い方や、私たちの「信じる」という行為の本質にまで踏み込んだ問題提起と言えるでしょう。特に、SNSやインターネットの発達により、情報の真偽を見極めることが困難になっている現代社会において、この「真実の相対性」というテーマは極めて重要です。私たちは日々、膨大な情報の中から「真実」を見出そうとしていますが、その過程で自身のバイアスや先入観に影響されていることも少なくありません。また、本作は「正義」の概念そのものにも疑問を投げかけています。社会通念上の「正義」と、個人が信じる「正義」が異なる場合、どちらを選択すべきなのか。この問いは、現代社会における倫理的ジレンマの一つとして捉えることができます。さらに、鏑木の行動そのものが「正義」なのかどうかという問いも提起されています。彼の目的が正当化されるとしても、その過程で他者を欺いたり、法を犯したりすることは許されるのか。この問いは、目的と手段の正当性に関する哲学的な議論にもつながっています。

4. 人間関係の再構築

鏑木の逃亡劇の中で最も印象的なのは、彼が出会う人々との関係性です。
特に、安藤沙耶香や野々村和也、酒井舞との交流は、人間の信頼関係の構築と崩壊のプロセスを鮮明に描き出しています。
鏑木は、自身の正体を隠しながらも、これらの人々と真摯な関係を築いていきます。この過程は、私たちに「他者を信じること」の意味や、「本当の自分」とは何かを考えさせます。
同時に、一度築かれた信頼関係が、真実の露呈によって崩れ去る様子も描かれており、人間関係の脆さと強さの両面を浮き彫りにしています。

特に興味深いのは、鏑木が異なる人格を演じながらも、それぞれの関係性の中で真摯な感情を抱いていく様子です。これは、人間関係における「演技」と「真実」の境界線の曖昧さを示唆しています。
私たちも日常生活の中で、場面に応じて異なる顔を見せることがありますが、それが必ずしも「偽り」とは限らないという複雑な心理を、本作は巧みに描き出しています。

また、鏑木と関わった人々の変化も注目に値します。彼らは鏑木との出会いを通じて、自身の人生や価値観を見つめ直すきっかけを得ています。
これは、他者との関わりが自己の成長や変化をもたらすという、人間関係の本質的な側面を表現しています。さらに、鏑木の正体が明らかになった後の関係性の変化も重要です。

裏切りや衝撃を経験しながらも、なお鏑木との絆を大切にしようとする人々の姿は、人間関係の複雑さと深さを物語っています。
これは、現代社会において希薄化しがちな人間関係の中で、真の絆とは何かを問いかけているとも言えるでしょう。

5. 演技と演出の妙

本作の魅力を語る上で、俳優陣の演技と藤井道人監督の演出は特筆に値します。
特に、横浜流星の5役を演じ分ける演技は秀逸で、それぞれの人物像に説得力を持たせています。この演技力は、物語の核心である「人間の多面性」というテーマを視覚的に表現する上で極めて重要な役割を果たしています。横浜流星の演技は、単に外見や話し方を変えるだけでなく、それぞれの人物の内面や背景まで深く掘り下げています。

例えば、優しい青年を演じる際の柔らかな眼差しや、冷徹な策略家を演じる際の鋭い眼光など、細かな表情の変化や身体の動きにまで気を配った演技は、観る者を引き込む力を持っています。
また、それぞれの人物像が鏑木の異なる側面を表現しているという点も興味深いです。
これは、一人の人間の中に存在する多様な可能性や、状況に応じて変化する人間の本質を表現する上で効果的な手法となっています。

共演者たちの演技も、作品の質を高める重要な要素となっています。吉岡里帆、森本慎太郎、山田杏奈らは、鏑木との関係性の中で複雑な感情の機微を繊細に表現し、物語に深みを与えています。
特に、鏑木の正体を知った後の彼らの演技は、驚きや戸惑い、裏切られた悲しみなど、複雑な感情を見事に表現しています。

山田孝之演じる刑事・又貫征吾の存在感も際立っています。又貫の内面的葛藤や、真実を追求する姿勢は、山田の渋い演技によって説得力を増しています。彼の存在は、物語に緊張感をもたらすと同時に、正義と真実の問題に深みを与えています。

藤井道人監督の演出は、サスペンスとヒューマンドラマのバランスを絶妙に保っています。逃亡劇の緊張感を維持しつつ、人間ドラマとしての深みも失わないその手腕は、本作を単なるエンターテインメントを超えた作品に昇華させています。
特に、鏑木の5つの人格を描き分ける際の演出は秀逸です。それぞれの人格が登場する際の画面の色調や音楽、カメラワークなどが微妙に変化しており、観客に無意識のうちに異なる印象を与えることに成功しています。これにより、鏑木の多面性がより効果的に表現されています。

また、フラッシュバックや回想シーンの使い方も巧みです。過去の出来事や鏑木の記憶が断片的に挿入されることで、物語に奥行きが生まれ、観客の興味を引き付け続けることに成功しています。

さらに、日本各地のロケーションを活かした映像美も本作の魅力の一つです。都市部の喧騒から地方の静謐な風景まで、様々な場所が鏑木の心理状態や物語の展開と呼応するように描かれています。これにより、日本の多様な風土が物語の背景として効果的に機能しています。

音楽の使用も効果的です。緊迫したシーンでの鋭いストリングスの音や、感動的なシーンでの柔らかなピアノの旋律など、場面に応じた音楽が物語の雰囲気を巧みに演出しています。
特に、鏑木の内面の葛藤を表現する際の音楽の使い方は秀逸で、言葉では表現しきれない感情を観客に伝えることに成功しています。総じて、『正体』における演技と演出は、複雑な物語と深いテーマ性を支える重要な要素となっています。俳優陣の卓越した演技力と、藤井監督の繊細かつ大胆な演出が見事に調和し、観る者の心に深く刻まれる作品となっているのです。

7. 結論:人間の複雑さを受け入れる

『正体』は、最終的に「人間の複雑さを受け入れる」ことの重要性を訴えかけているように思えます。
私たちは往々にして、他者を単純化して理解しようとします。「善人」か「悪人」か、「被害者」か「加害者」か、といった二項対立的な見方です。

しかし、本作が示すのは、人間はそのような単純な分類に収まりきらない複雑な存在だということです。鏑木の5つの顔は、私たち一人一人の中にある多面性の象徴とも言えるでしょう。そして、この複雑さを受け入れることこそが、真の意味で他者を理解し、信頼関係を築く第一歩なのかもしれません。同時に、社会システムや司法制度もまた、この人間の複雑さを前提として設計されるべきだという示唆も含まれているように感じます。

『正体』は、エンターテインメントとしての魅力を十分に備えながら、観る者に深い思索を促す稀有な作品です。この映画が投げかける問いは、現代を生きる私たちにとって、極めて本質的かつ重要なものばかりです。娯楽作品としての完成度の高さと、社会派作品としての深い洞察が見事に融合した本作は、日本映画の新たな地平を切り開いたと言っても過言ではないでしょう。

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