底を割ったかな
この秋に入り、少しづつうつ状態から脱し始め日常の思考のピントがあってきていましたが、やっと音楽を聴けるようになりました!!!
音楽が入ってこない
数ヶ月の間、音楽や映像は雑音でしかなくて、自分の中に何も流れてこないという状態で、もちろん自分自身で踊るための音楽も体内に流れない。困ったなあと思って、時々カラオケに行ってみると、その時は少しだけ、自分が違う世界に移行できる。そんな状態でした。苦しかった。
タップのワークショップの時は大丈夫なのです。
どうしてだか、アウトプットするときにしか回路がつながらない、そんなふうでした。
スローモーション
それで、自習でも踊れず「スローモーションで音を確かめる」という基礎練だけをしていました。なんのフレーズも湧いてこない。足先で踊ろうと思えば踊れます。でも、それはしないほうが良いと思いました。
スローモーションの練習方法というのが実はありまして、ジストニアのピアニストの方など、リハビリを兼ねてじっくりとスローモーションで弾いたことが表現力になったと聞いたことがあります。なのできっと無駄にはならないだろうと、それだけは続けるようにしていました。
じっくりと聴いてみると、音は、ただ音としてあります。私の感情なんて関係なく、ただ振動が伝わってきます。それは板によっても響きが変わり、シンプルで気持ちの良いことでした。
自分の底
カウンセリングにも通いながら、自己を辿ってみるのですが、どうやら私は空っぽです。鏡とか、水溜りとか、どちらかといえば何かを写すものであって、主体は空なのではないかと思います。ということは、私がこうなったらいいなと思うことは、おそらく、多くの人の心の中に内在していることなのではないかと思いました。うまく表現できていないので、多くの共感を集めきれていないところですが、なんとなく、自分というものはそういう入れ物であって、だからこそ、割とひどいとも言える多様な経験をしてきたのだろうと思います。
表現ってなんだろう
また振り出しに戻った感じです。
音は音としてただある。その気持ちよさ、響き。
それに人間が、現在生きている人間がのせる何かが、どこに響くといいのだろう。花は季節が来たらただ咲く。
「中今に遊ぶ」という言葉が好きです。
時間は縦には流れていなくて、過去も未来も同じタイミングで重なっている。その間で遊ぶことが歌舞音曲の役割だったそう。
スローモーションの蓄積から、次の何かを見つけられるかもしれません。見つかるといいな。
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