僕にとっての「歌」
今週は何を書こうかな、と考えていたら、我々odolのワンマンライブ、”individuals”までもう1ヶ月を切っていたことに気がつきました。
2月のINHALERのオープニングアクト以来、約1年ぶりのライブです。
この“individuals”でどんなものを用意しているのかについては、また別でお話する機会もありそうなので、今回は「歌」というものについて僕が思っていることを書こうかなと思います。
皆さんにとって、歌とはどんなものでしょうか。歌を聴くことが好きだったり、歌を歌うことが好きだったり。逆に人前ではちょっと……という方もいらっしゃいますね。
他の楽器とは違い、自分の体そのものを楽器として奏でる、「歌」。しかし、この「人体」という楽器は、その日の体調や気持ちの違いでその響きを変えてしまいます。しかも、この楽器は「全く同じ音を出すことのできる」人間が存在しません。声帯の形も、その音が響く頭蓋骨の形も、体のつくりも人それぞれだからです。
しかし、僕はその不安定さ、不器用さにこそ、多くの人たちが「歌」に感動することのできる秘密が隠れていると思っています。「声」が本来不安定なものだからこそ、修練を積んだボーカリストの、まるで楽器のようなビブラートや強弱、声色のコントロールは、ただ音としてそれを聴くだけで気持ちがいいのです。そして少しの気持ちの揺れ動きで変わる声の表情は、聴く人に歌い手の気持ちをダイレクトに伝えてくれます。その人の、その瞬間にしか感じることのできない感情も、聴き手は音として感じることができます。
(ソフィアンも歌う。photo by Rei Otabe)
そしてもちろん、ステージで歌うものや、音源としていろいろな人に聴かれているものだけが「歌」ではないということも知っています。お風呂で歌う鼻歌や、子供たちが歌う数え歌など、「誰かに何かを伝える」という、僕がこれまで歌ってきたものとは違った形があります。そのいろいろな形に触れて今思うのは、僕にとっての「歌」というものはとても神聖なものだということです。
先日、音楽のテレビ番組で、精神科の先生がおっしゃっていたのですが、誰かの「歌を聴く」ときの精神状態は、実際には声には出さないけれど「歌い手と一緒に歌っている」状態とほとんど同じなんだそうです。
つまり、僕らがライブをするときに聴きにきてくれる皆さんは、僕と一緒に歌ってくれていて、日々の中で僕らがリリースした曲を聴いてくれている皆さんは、自分の生活の中で僕と一緒に歌ってくれている。そう考えると、今まで僕が「歌」に感じてきた素晴らしさや神聖さを説明できる気がしました。
僕はこの先もこの「歌」という仕事を続けていきたい。そして、もっともっと多くの人たちと分かち合ってみたいんです。
ヘッダー撮影:今井駿介