機動力をあげることー情報生産者になるより
いろいろなことをやりたいと思っている
保育の質はあげたい。
具体的には、こうしてああして、そのために情報をあつめて
あそこの園はこうしている。いいなあ。僕らもこうしたい。
理想を抱き、なんとかトライアルしてみる。
研究会にも顔を出すようにした。繋がりも少しずつ生まれていく。
頑張りが、少しずつ形になっていく。
保育の見直し、園の改革には、当然のことながらそこで働くマンパワーが欠かせない。もっといえば、コアパーソンが必須。
仲間がいれば、かかる労力は分散できるが、それは園にもよる。
上野千鶴子さんの、その著書のメインテーマではないものの、情報を分析するにあたり、人ができる上限というものがある、という。
たとえば、グループでディスカッションするときの上限はおおよそ7~8人。
社会学のインフォーマルグループ研究では、経験則的にその上限人数は15人だそう。それ以上になると、二つに分かれるらしい。
また、例えばkj法で分類したユニットを、一人の人間が分析できる上限は100前後あたり。
これらは、経験則ではあるものの、ああ確かに分かるという共感が一定程度ある。
ここでフォーカスしたいのは、人間には「身体的限界」があるということ。
体力も無尽蔵で、時間が腐るほどあるならいざしらず、研究にしても保育にしても、仕事というのは限りある時間の中から、セレクトされている。
有限だからこそ、内容にプライオリティをつけ、ある程度の見通しのもと、一日にできることに取り組んでいる。
身体的限界を保育にからめて考えると、真っ先に思い浮かぶのは、クラス人数。幼稚園の一クラス当たりの最大に人数は35人。
管理することは可能だが、個別に理解し、援助していくことは当然ながら、質としては下がる。
保育を変える、というのはどうだろうか。
1人では無理だろう。
というより、「変える」ということをどういう意味合いで使用しているかにようって回答は異なるだろうが、一人でできる限界と範囲がある。
個人的なことを言えば、多くの人は、もしかしたら、「限界」ばかりに目がいきがちなのかもしれない。
身体的限界の反対は、自身がコントロールできる範囲はどの程度なのか、という「対応可能範囲」。
この前も書いたが、上野さんは「風呂敷の畳み方」を覚えよ、と言っている。
もしかしたら、研究の初学者だけでなく、人は何かをしようとた時に、大きく風呂敷を広げてしまう傾向があるのかもしれない。
だから、すぐに「限界」に気づいてしまう。
行事を変える事なんてできない
それは、うちでは難しい
風呂敷を畳んでみよう。つまり、問いをスケールダウンして、自分の園なら
、いや自分ならの方がいいかな、自分ならどこまでなら行動が可能な範囲なのか。
小さなことでもいい。
いや、むしろ小さく具体的なことの方が動きやすい。
大事な事は、
限界を知り
かつ、行動可能範囲を見極め
問いを小さく具体的に、行動できる最小単位にして
機動力をあげる。
これかな。