オドヒロユキ

学びを生み出す『ラーニングデザイナー』。保育者。多摩地域の保育者のプラットホーム『タマケン』を共同主催。2018年新幼児と保育「私の保育記録」佳作受賞。著書に「エピソードで楽しく学ぼう人間関係」「あそびの中で子どもは育つ」「表現の指導法」等

オドヒロユキ

学びを生み出す『ラーニングデザイナー』。保育者。多摩地域の保育者のプラットホーム『タマケン』を共同主催。2018年新幼児と保育「私の保育記録」佳作受賞。著書に「エピソードで楽しく学ぼう人間関係」「あそびの中で子どもは育つ」「表現の指導法」等

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今年度に入って、生活の状況が大きく分かり、平日はおおよそ深夜まで、文献や執筆などの作業に費やす日々が続く。案の定、寝不足な日々が続き、特に6月中旬くらいから、ひどい暑さになると疲れが日中にも押し寄せてくるようになる。 特に、5月から6月は酷かった。保育学会シンポのPPT作り、領域言葉原稿の依頼に加え、3件の登壇依頼で、本業(厳密には違うが)の論文作成も同時並行していた。 同時進行を余儀なくされると、朝の通勤は、「言葉」のことを考え、仕事が終わった夕方は、「組織」について考

    • 子ども主体の保育が「すぐできる」か「100年後」かどうか明暗を分ける3つのこと〜口コミと不確実性の放棄〜

      最近は、あまりに忙しすぎてアウトプットする時間も作れなかった。かくかくしかじかあって生活という仕事の仕方が変わり、目も回るほどの忙しさになる。 今までブログなどのアウトプットをしていた時間は、文献を読んだり、英語学習に充てなければならず、必然的に趣味的であるブログへのアウトプットの時間は削られていく。 まあそれはそれとして。今回は、1月に書いたままになっていたテーマの続きを書きたいと思う。つまり、「子ども主体の保育が「すぐできる」か「100年後」かどうか明暗を分ける3つの

      • 「分かる」ということの限界点

        1月は結構なハイペースでnoteを書いていたが、一気にブレーキがかかった。その理由は、4月から研究生になったことで生活と仕事リズムが変わったことが大きい。 まあもっと言えばインプットの修行中か。 ここ4〜5年、実はかなり悩んでいた。新人時代は同時に修士課程に行き、それなりに「論」を積んできた。なので、実践自体はからっきしだが、それなりに(偉そうに)語る、論じる、記述することはできた。 いや、「できた」と思っていた。 しかし、ここ5年くらいから、実践の中で子どもの姿が見

        • 子ども主体の保育が「すぐできる」か「100年後」かどうか明暗を分ける3つのこと

          子ども主体の保育論考シリーズを続け、なぜかアクセス数が増えている。キャッチ―なタイトルが分かりやすいのか、何なのか分からないが、とはいえ、ある程度、そのことを狙ってはいるものの、しかしながら、まあ「子ども主体の保育」というフレーズの流行というのもあるだろう。 すぐできる!というのは、もうお分かりだとは思うが、アンチテーゼでもある。すぐできるわけないだろう、という。やってみな、という意味を込めてもある。 しかし、もう一つウラノ意味もある。 「すぐできる」ということを、どう

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        • 対話の可能性
          9本
        • 園組織の行方
          12本
        • 行事改革
          10本
        • ミドルリーダーの役割
          2本

        記事

          今すぐできる!子ども主体の保育…の前にタイトルの問題

          子ども主体の保育、と聞いてぱっと思いつくイメージは何でしょうか。 例えば、研究会に「子ども主体の保育への転換」と記載されていたならば、 おそらく、今までの保育から脱却しようとしているんだな、とか 一斉保育や保育者中心から移行しようとしているんだな、というイメージを持つでしょう。 フレーズとしては、そのようなイメージが定着し、「移行する」という意味では伝わりやすい、といえます。 しかし一方で、その言葉自体に着目すると、どのようなことが「子ども主体」なのかということになると

          今すぐできる!子ども主体の保育…の前にタイトルの問題

          二項対立は必要悪?行動の原動力を探す

          今、色々とリサーチしている問いがあって、その中でデューイは避けて通れず、難解な訳本に目を通して、さっぱり言い回しが分からないという苦行をしている。 そんな中、解釈本(原著を訳したものではない)にも目を通して、とりあえず本流ではないけど、デューイの足跡を辿ろうと、色々と模索している。 読めば読むほど、デューイって凄いなあと感じるのである。現代の教育の方向性を礎を作った、その一端を担っているのはデューイの考えからであるし、それを100年も前から考えていることが、もう驚きやら、

          二項対立は必要悪?行動の原動力を探す

          今すぐできる!子ども主体の保育への転換の3つのヒント~補足編~問いのスケールダウン

          まあね、そんなすぐに子ども主体の保育になんか転換できないよ、と内心は思っているわけではありますが、とはいえばそれは考え方、なんですね。 ここからは、少し補足編です。 なぜ、「できない」と思うのか。について、です。 特に、②で紹介した「記録」というのは、具体的に行動を起こすための1つのきっかけに過ぎません。もっと言えば、具体的な行動であれば何でもいいのです。 しかし、どう動いていいのか分からないという人がかなりの多数派でしょう。 なぜ、動けないのか、内省してみましょう

          今すぐできる!子ども主体の保育への転換の3つのヒント~補足編~問いのスケールダウン

          今すぐできる!子ども主体の保育への転換の3つのヒントその3〜外部リソースを確保せよ!〜

          3つのヒントのうち、最後の三つ目。 一つ一つが長くなり、3つ目の投稿になってしまいました・・。 参考までに、一つ目は『仲間を作ること』 そして、二つ目は、「記録」です さてさて、最後の3つ目になります。 三つ目は、外部リソースを確保すること、です。 えー、簡単にいうと、外部に相談できる人を作る事ですね。 誰でもいいです。が、今あなたがやろうとしていることに共感してくれ、 かつ、一緒に考えてくれる人が良いでしょう。 保育という道のりは、険しいものです。変えるとい

          今すぐできる!子ども主体の保育への転換の3つのヒントその3〜外部リソースを確保せよ!〜

          今すぐできる!子ども主体の保育への転換の3つのヒントその2〜他人事から自分事へ〜

          今すぐできる子ども主体の保育への転換の3つのヒント、その②は記録です。 いや、うちは書き仕事がたくさんあるから、日々の記録に加えて増やすことはできない、と思うでしょう。 しかし、簡単でいいのです。題して、悪口日記。ネーミングが悪すぎます。 どんな時に、違和感を覚えたのかを、細かいことから大きなことまで、書き連ねましょう。 行事やカリキュラム、給食時の配膳の仕方など、多岐に渡るかもしれません。 とにかく、書きまくりましょう。一体、いくつ出てくるでしょうか。たくさん出て

          今すぐできる!子ども主体の保育への転換の3つのヒントその2〜他人事から自分事へ〜

          今すぐできる!子ども主体の保育への転換の3つのヒント

          行事を変えたいけど、園長の考えが変わりません こういう保育をしてみたいけど、うちではできません 遊びを大事にしたいけど、職員がなかなか聞いてくれない こういった悩みを聞くことが増えてきました。中には、子どもを大事にした保育をしたいですがどうしたらいいですか?という丸投げ的な質問もあります。 それほど、追い詰められているのでしょう。気持ちが痛いほど分かります。 今回はこういった悩みにお答えする形式で論考を進めます。 なお、「子ども主体の保育」という中身については、今

          今すぐできる!子ども主体の保育への転換の3つのヒント

          保育の「正しさ」はどのように作っていくのか

          時代が変わってきたということは、もう手垢がつくほど、昨今では使用されている言葉である。 誰でも使っている。しかしながら、どう変わってきたかということをその実情を踏まえて使用している人はわずかであろう。 AIやIOTの発達とか、何十年先には今の職業の半数(だっけ?)はない、とか、どっかで聞きかじった程度の話を、特に吟味もせず使用している例が散見される。 ほんと、分かってんの?っていうか、僕らの現実生活で、どの程度そういう実感あんの?っていうツッコミをいれたくなるほどである

          保育の「正しさ」はどのように作っていくのか

          よそ者、馬鹿者、若者が保育業界を変える

          脱却、イノベーション、創造、改革 言葉として甘美な響きがある。しかし、実際は血のにじむような努力が、 しかも継続的で、諦めない自力が求められる。 地方創生の記事を目にしたときに、関心をひかれる言葉が連なっていた。 地方を再生させるマンパワーの資質として、よそ者、馬鹿者、若者、だそうだ。 確かに、これは一理あると思った。 このワードに関しては、賛否あり、確かに「よそ者」という言葉をきちんと考えると、よそ者=部外者に参入できることは限られているとか、「若者」が全員改革派

          よそ者、馬鹿者、若者が保育業界を変える

          習っていない漢字を書いてはいけない

          人は、興味があることは、教わらなくても自ら学習しようとする。 「人間は考える葦」とは、哲学者パンセの言葉である。考えること、考えて自ら試行錯誤しながら、物事を進めようとすることが、人間の人間たる所以である。 しかし、表題の言葉に代表されているように、教師が教えたこと以外を良しとしない昭和的な傾向は未だ根強い。 教師の気持ちはこうだろう。 教わっていない漢字を独自に覚えてしまう事で、書き順やその漢字の成り立ち、または、止めや払いなどの書き方を覚えずに誤学習してしまうとい

          習っていない漢字を書いてはいけない

          這いまわる経験主義ー悪くはないが、良くもないー

          僕らの園は、といってもこの「僕ら」という主語は、自園だけではなく、自分たちを含めた今まで遊びや生活を大事にしてきた園であるのだが、ある種の大きな転換点を迎えている。 戦後、新教育運動に端を発すコアカリキュラムの意思をひきついだ久保田浩の哲学を基盤にし、80年代、90年代と、様々な園が自園の保育の質を追究していく。 しかし、ときは流れ、やがて形式だけが残るようになり、本質的な魂はどこかに追いやられる。そのことは、もうここでも何度も書いたが、端的に再度整理すると、その要因は二

          這いまわる経験主義ー悪くはないが、良くもないー

          「対話」にまつわるエトセトラ

          対話という言葉が、昨今教育業界を席巻している。 2年前の要領改定でこのワードが出たこと、あとはレッジョの実践からの影響も大きいのだろう。と個人的には思う。2019年前後くらいから、対話という言葉の使用頻度が急増したような記憶がある。 その使用例としては ”保育現場では、職員同士の対話が必要” とか ”実践者同士で対話しましょう” とか ”うちの園には対話が欠けている” とかそういった感じ。 どの例が最も「対話」という本質的意味に類似しているかというのは、使用者がど

          「対話」にまつわるエトセトラ

          僕、ヨウセイになったってよ 5日目〜7日目ー歩くことと会話が消えた

          ようやく自宅監禁の折り返し地点が見え、そろそろゴールが見え始める。 5日目になると、狭い部屋なりに生活のルーティーンが出来つつある。 6時くらいに起床して、ヨガして、朝食とって、仕事して、昼ごはん食べて、少し休憩して、ブログとか書いたりして、胃の中が消化された頃に筋トレして、休憩して、風呂入って、夕飯食べて、iPadでAmazonプライムのドラマ見て、寝る。 体温は、多少の増減はありつつも平熱。 症状は、5日目以降は、特になくなってくる。睡眠の妨げになっている鼻づまり

          僕、ヨウセイになったってよ 5日目〜7日目ー歩くことと会話が消えた