自由が不自由になるー発達158号から
違和感を覚える事がある。
その時には、明確な答えは出ないし、それに対して反論もできないほど、自分の中にはおぼろげなんだけど、なんとも言いようのないモヤモヤ。
違うんだけど、明確に言葉にできないモヤモヤ。そんな違和感。
そんな違和感に、無理に答えを出そうとせずに、そっと心にしまっておくと、ふとした時にこれだ!という何かに出会う時がある。
今回、発達158の自閉症の子どものケースについての記事を読んでいたときに、あの時の違和感が、解消される。
記事の簡単な概要は、養護施設に通い始めた新一年生のA君が、登校バスから下車するものの、歩くことを拒否し、担当の先生との相互作用から、少しずつできることが増えていく、というものだ。
そういった事例に対する中塚さんの考察がとても的を得ていて納得してしまった、というものだ。
中塚さんは、斎藤環の言葉をこう引用している
「自分の嫌なことをすべて拒否した自由な生き方は、もっとも不自由な生き方になっている」と。
子どもの嫌だやりたくない、と全て引き受けてしまうことで、結果的に子どもが不自由になっているということだ。
このA君も、幼児期に彼のペースで過ごしていた結果、ほとんど自力で歩くことなく、足裏が赤ちゃんのように柔肌だったようだ。
中塚さんも、発表者も、幼児期の経験として明確に批判してはいないものの、保育者としてはハッとさせられる。
中塚さんは、一人でできることと、人と一緒にできることは、似ているが全く違うということも指摘している。
自立的に一人でできることは、幼児期の大事なことの一つではあるが、人と一緒にできるということは、ペースを合わせたり、意思疎通をはかることが求められる。友だちに対してであれ、大人に対してであれ。
他者がいるということは、当然意にそぐわないことがおき、ズレが生じる。ズレが生じるからこそ、自分の意図を相手に伝えようとしていく過程で、おぼろげだった自分の意図が明確になっていく、と指摘している。
やりたくない、という子どもの要求を全て受け入れるのではなく、大人との相互作用の中で、どこまでだったらできるのか、保育者が寄り添いながら見つけて行くことが大事、ということだろう。
そこで、最近、保育の中でも、遊びの中で多様な参加の仕方を尊重している。僕も。
例えば、劇遊びひとつとっても、演者がいて、監督がいて、証明係がいて、いろんな参加の仕方がある。
この前、そんな話をしていた時に、お客さんでもいいですよね、というような話になった。これが冒頭の違和感である。
僕の文脈と彼の文脈ー劇に対してのーが違うかもしれないが、それは安易かなーと思ったのである。
どんな思いで、何をしたいから、お客さんになろうとしたのか。それがもし、演者になりたくないから、劇をしたくないからという理由であるとしたら。
本当に、なんでしたくないのか、もう少し保育者がそのやりたくない思いに寄り添う必要があるのではないかなーと。
そういった同様の思いってけっこうあって、子ども主体の保育をしているけど、子どもが弁当食べたくないって言うけどどうする。
とか。
そういった類のことってかなり多くなっている。
計画を変更したり、こちら側の枠組みを変えるということはもちろん大事だけど、相互的に応答的に関わっていくことが、まず大事なのかなーと思う。
子どもの拒否や、保育者と子どもの思いのズレが生じるならば、そこにじっくりと付き合うことで何かが見えてくる
そこをすっ飛ばして、安易に答えを出そうとすると、やっぱりそこは、結果的に不自由にさせてしまう可能性もあるのではないか。
そんなことを思った。
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