アクティブラーニングは、不断の努力
新しい概念や言葉が使われると、どういうものなのか理解しようとする。
主体的・対話的で深い学びという概念は、生涯にわたる学びの基礎を担う。
これから、学んだことをどう活用するのかということが肝になり、教科等を中心とした内容を「どう学ぶのか」ということに対応するのが、アクティブラーニングということになる。
しかし、アクティブラーニングの初出は2012年の大学教育からと約10年前からであるが、学習指導要領の改訂に伴い、この言葉の流通が広がる。
と、同時にハウツーもののアクティブラーニング関連の書籍が、本屋の店頭に並ぶことになる。
那須さんは、このことを痛烈に批判する。
「必要な学びの在り方を常に考え、授業の工夫を重ねていくことが求められ、アクティブラーニングとは特定の指導法ではない」
中教審の答申の中には、こう記されている。
那須さんはこの部分を引用し、
『きわめて大事な事は、指導方法の不断の見直し』であることを強調している。
こうすれば、アクティブラーニングは上手くいく。
これを読めば、主体的な学びは育つ・・・
そんな簡単なものではないだろう。いったい、出版社は何を考えてるのだろうか。売りたいのは分かるし、キャッチ―なタイトルを使えば手に取ってもらえる確率は上がるだろうが。
これから教育が目指すべき方向と、真逆に舵をとってどうすんだべ。
那須さんの指摘は重要だ。
つまり、どう学ぶかというセオリーはない。目の前の子どもをよく見て、どう伝えるのか、何を考えさせるのか、常に考えろということである。
このことが、主体的・対話的で深い学びのポイントであるよ、ということである。
言われれば納得するが、実行することは確かに容易ではない。
原理はある。子どもたちの資質能力を高める、ということ。それは、学んだが知識や技術をどう応用できるのか、また簡単に学習転移はできないから、汎用性の高い学びに昇華されるために、教科をどう横断していくのか。
考えるポイントは示されている。
保育に引き戻して考えると、未だ混乱の最中でもある。
主体的・対話的で深い学びということが、イコールプロジェクトであったり、子どもに任せすぎてしまうという事もある。
常に見直していくという姿勢は、とても重要である。と同時に、次の段階として見直していればそれでいいか、という問題もある。霧の中を彷徨っていては元も子もない。
次の教育要領ーつまり、日本が目指すべき教育の姿として、個別と集団の学びが一つ挙げられる。
ここからはソースがなく、個人的な見解であるが・・・
最近、保育では養護という視点から、あるがままの姿でいい、そのままで十分価値があるという考え方がある。子どもはそのままで学ぶ力があるし、教師が無理に教育をする必要はない、とする(ものすごく簡単に言えば)。
一方で、カリキュラムを計画し、意図に沿って保育を展開していくという流れもある。
子ども主体か、計画先行か、ということが「主体」という言葉を巡って議論の種になるのだが、どうしても二項対立的になりがちである。
小学校の学習観の変遷でいくと、戦前戦後のコアカリキュラム隆盛の興味関心ベースのカリキュラムから、授業中心のカリキュラムに移行し、今はそのちょうど中心ーつまり、どっちも目指すという方向性に舵を切っている。
小学校だけでなく、幼児教育もこの2項対立の終止符を打ち、子どもの興味をベースにし、保育者が計画するという考え方が浸透してきている。
しかし、個人的に見ると、どうしてもどちらかに寄りがちである気がする。
2年前に無藤/大豆生田両先生が出した新しい概念の計画ー保育計画はおおまかでいいという指針はかなり示唆に富むものである。
しかし、これも個人的なものではあるが、おおまかと言いつつも行事という園の文化が強く作用する場合では、どうなのか、とか。クラス作り、集団作りにおいては、教師の意図性が高くないと難しい場合があるのではないか、という疑問もなくはない。
つまり、そういったことにおいては、おおまかであるものの、ここは外せないという教師の意図が不可欠である。ような気がする。
これから、もしかしたら、そういったさらに踏み込んだ計画としての概念が求められるのかもしれない。