アイドルっていいもんだ
※SixTONES 全国アリーナツアー「Feel da CITY」の2/11(金)・2/12(土)の公演について触れています。ネタバレ等、気にされる方はお気をつけください。
アイドルが好きじゃなかった
“アイドル”という言葉を聞いて、どんなイメージを持つか。
私はなんとなく、いつの間にか、“作りもの”というイメージを抱くようになっていた。
作り上げられたイメージ、作り上げられた世界、隙のないブランディングの中で生きている人たち。自我を見せることなく、まるで綺麗に着飾った人形のような、画面越しでは体温を感じることができない、そんな存在のように私は感じていた。
昔はそんなことを思ったことは一切なかった。14年前にジャニーズを好きだった頃も思っていなかった。おそらく韓国のアイドルたちを見ているうちにそう思うようになったのではないかと思う。日本よりも完成された、完璧な姿を見せることが美学とされている世界だから。
でも私はそこに面白みを感じられなくなっていた。彼らは生きている人間のはずだ。完璧であることだけが魅力なわけじゃないのでは?もっと多面的な魅力を見せてもいいし、一人ひとりの個性を見せたっていいじゃないかと思ったのだった。
だからBIGBANGを好きだったし、SixTONESを好きになった。
そう思っていた。SixTONESのコンサートを目の当たりにするまでは。
SixTONESは完璧なアイドルだった
昨年2月。映画『ライアー×ライアー』をきっかけに松村北斗という存在を知った私はまだSixTONESを生で見たことがなかった。好きになった人はすぐに会いに行く、がモットーだった私もこのコロナ禍の影響を少なからず潜在的に受けていたようで、会えなくても満たされる体質へと変化していた。(中村倫也を好きになってから、俳優は簡単に会えないという新たな概念が導入されたこともあるかもしれない。)しかし今回幸運にも、SixTONES全国アリーナツアー「Feel da CITY」の静岡公演に当選し、お目にかかれることになった。SixTONESのコンサートはなかなか当たらないと聞いていたので、心の底から感謝した。ありがとう。
ジャニーズのコンサートに入るのは、約14年振り。そもそもコンサートという現場に行くのも2年振り。コロナのせいで韓国のアイドルたちが日本に来れなくなって、もう2年も経っているのだ。現場に向かう私は完全に挙動不審と化していた。
SixTONESを好きになったのは松村北斗がきっかけだった。だが、そこからコンサートに行くレベルに仕上がる過程の中で重要なポイントとして存在していたのが、“アイドルらしくない姿”というものがあった。ラジオの中で、ちょっと捻くれた面倒くさい人間性がそのまま出ていたり、YouTubeの中で自由奔放に振る舞っていたり、サブカル風な趣味を垣間見せていたり。松村北斗以外にもアイドルでありながら、モテキャラで打ち出している田中樹、アイドルなのにお笑いに貪欲なジェシー、遊戯王だのポケモンだのオタク丸出しの京本大我、自由かつ野性味溢れる森本慎太郎、同じ世界線に生きているのでは?と思わせてくれる髙地優吾。全員全く異なる個性を生かしながら、活躍しているアイドルなのだ。アイドルだけど、アイドルらしくない面でも勝負している6人を好きになった。
コンサートに行ったことのない私からすると、YouTubeでの彼らやラジオの彼らに親近感が湧き、近所の兄ちゃん的な心づもりでいた。(大変失礼な話である)もちろん、音楽性の高さやパフォーマンスのレベルの高さは知っているつもりだ。だが、きっと人間味溢れる6人なのだろう、と思っていたのだ。BIGBANGに会ったあの時の感覚のような。
2/11(金) 18:00。SixTONESの6人はS字の巨大舞台装置、“Sカレーター”の上にいた。確かにそこにいた。私は彼らを肉眼で見ているという事実を俄かに信じられずにいた。そこから休む暇なく、怒涛のスピードで圧倒的なパフォーマンスを見せつけられた。スタンドにいた私はメインステージに立つ松村北斗を双眼鏡で見続けた。穴が開くのではないかと思うほど。ほぉ……あれが松村北斗なのか……、どこか離れたところから俯瞰的に見ていた。まるで家でDVDを見ているような感覚なのだ。
これまでに感じたことのない不思議な感覚に妙なざわつきがあった。この日、幸いなことにスタンド2列目という良い席に恵まれていた。そしてコンサートの途中、運良く、松村北斗が近くに来た。近くに来る…!と分かった瞬間、2mくらい先に、目の前に松村北斗がいるのに、なんだか実体がないような気がした。「これは生きている人間なのか…?」と。失礼な話だが、どついたら、フッと消えてしまいそうな幻想にしか見えなかったのだ。美しくて、美しすぎて、麗しすぎて、絵画のようだった。何度見ても、そこに存在しているとはどうしても思えない。人間味が全くなかった。これを最も強く感じたのは松村北斗であったが、その他の5人についても、自分が想像していた、日々あらゆるメディアから感じていた6人とは異なる6人がそこにいた。
アイドルだ、と思った。
SixTONESはジャニーズらしくない、アイドルらしくない、と言われているし、私もそう思っていたが、全くそんなことはなかった。完璧なアイドルがそこにいた。
自分が感染対策のために付けているフェイスシールドのせいもあったかもしれない。でもそこには確実に異なる世界線の線引きがあった。
アイドルの魅力をぎゅうぎゅうに、SixTONESの魅力をぎゅうぎゅうに詰め込んだパフォーマンスを見ながら、圧倒されている中で、私が想像していたSixTONESがいた瞬間があった。それが「WHIP THAT」〜MCの時間である。「WHIP THAT」のパフォーマンスの後に、MCに入る流れで、マシンガンのように喋り出す6人はまるでANNを聴いているかのようだった。いつもの仲良しさ溢れるSixTONESがそこにいて、ファンのことを意識した顔というよりも自分たち6人の“楽しい”を最優先している様子を目の当たりにした。これこそ人間味溢れる、年相応の男の子たちの姿だと思った。私の知っている、大好きなSixTONESだ、と思って安心した。
パフォーマンスとMCのギャップに風邪を引きそうになりながら、2/11(金)の公演をひと通り見た。見た後の感想は、本当に私が見ていたのは自分が生きている世界で起こったものなのか?というものだった。楽しい、カッコいい、嬉しい、幸せという感情を抱けるほど、記憶に残せていなかった。幻想のような2時間15分だったのだ。これまでいろんな推しのコンサートに入ったが、こんな感覚になったのは初めてで。言葉にできない、戸惑いが駆け巡っていた。
2/12(土) 18:00。今回静岡公演2日目にも運良く入ることができた。神様、ありがとう。
前日の松村北斗幻想説を引きずっている私は2回目は心して、覚悟を胸に現場に入った。サブステ横のブロックという嬉しすぎる席に幸福感と焦りを覚える。どうしよう、また私には松村北斗が幻想に見えてしまう…。2回も運良く入れたのに幻想で終わるなんて……。
そわそわした気持ちを胸にSカレーターに乗る松村北斗を見た。でもやっぱり幻想なのだ。そこにいるし、同じ空間の中で、同じ時を過ごしている。なのにどうしてだろう。松村北斗に血が通っている感じがしない。まさか彼がペットショップで子犬を眺めたり、とろろ御膳を注文したり、下北沢でスタバを飲んだり、そんなことをしている人間には思えないのだ。完璧な姿、一点の隙も曇りもない。輝きを放つ存在だ。本物のアイドルというのは、こういう人のことを言うんだ、と心の底から思った。と、同時に彼が私にとって、面白味を感じないと思っているアイドルという部類の人であるという事実が悲しかった。
変な話だ。ジャニーズといえば、アイドルの王道中の王道。彼らだって「自分たちはアイドルだ」と散々話しているじゃないか。それなのに勝手に「アイドルらしくない」と、自分の思い込みが色濃く映った色眼鏡で彼らを見て、好きになって。いざ目の当たりにしたら、アイドルだった、自分の思っていた人と違った、なんて、そんな話。勝手な消費者だ、と自分で自分に失望した。ごめんね、北斗、と思った。北斗はちゃんとアイドルだった、勝手に色眼鏡で見て、ごめんなさい。
コンサート中にも関わらず、そんなネガティブな感情に完全に支配されてしまったこの日もあの時間はやってくる。「WHIP THAT」〜MCの時間。この公演もいつも通り、ジェシーの謎の動きを全員で真似た後、なんと匍匐前進をし始めた。ゲラゲラと笑い転げる6人を見て、「この瞬間はやっぱり人間らしいよなぁ…」なんて思っていた。MCも変わらず、自由奔放で、6人に笑わせてもらっているうちに、先程までの北斗への謝罪モードはどこかへ吹っ飛んだ。愛らしい6人を見ながら、自然と笑っている自分がいた。彼らの存在を噛み締めていたのだと思う。
パフォーマンスに戻ってから、ふと、私の見方を変える瞬間が突然訪れた。MCからパフォーマンスに戻ると、再び幻想モードに入った私の思考を止めたのだ。
それが「フィギュア」のパフォーマンスだった。そうだった。彼らはこの姿を目指してここまでやってきたのだ、と。たくさんの努力を重ね、絆を深め、葛藤と苦悩を乗り越え、心が折れそうになった時も自分たちの夢を何度も何度も描き直し、懸命に走り続けてきた。誰かに言われる“正しさ”や誰かが決めた“在るべき姿”ではなく、自分たちが望む“正しさ”、“在るべき姿”を信じ、進んできた6人だからこそ、今があるのだ。一人ひとりになりたい何者か、があって、それを目指して、もがきながら進んできた。そしてそれが今、徐々にちゃんと現実になっている。きっと次に目指すものも見えてきている。その姿を今見ることができているんだ、と一人ひとりの個性が爆発した全く異なる衣装なのに、ちゃんと一つのグループとして調和の取れた6人のパフォーマンスを見ながら、感じたのだった。涙が込み上げてきた。
そして、歌って踊る松村北斗の姿の中で私がいちばん好きな「NAVIGATOR」が始まった時、私の中で衝撃が走った。
ごめん、北斗。私が間違っていたよ、と。
私が今目の前で見ている、幻想のように美しく完璧なアイドル松村北斗も、ラジオやYouTubeで感じるちょっと面倒くさい人間味たっぷりの陰キャ松村北斗も、物事の見方や捉え方に自分の感性と思考が滲み出ている松村北斗も、自分の在りたい姿・目指す姿に向けて、ひたむきに努力を重ねる松村北斗も、すべて一人の“松村北斗”なのだ。
どういうことかといえば、その全ての姿はどれも真の松村北斗、素の松村北斗の姿ではなく、松村北斗という一人の人間が私たちファンに見せたい“松村北斗”なのである。松村北斗が意図的に見せている、“アイドル・松村北斗”の姿なのだと感じた。
「意図的に」ということは計算しているかもしれないし、考えた上で作られた言動かもしれない。そしてそれはちょっと寂しいことかもしれない。でもなぜか、不思議とすんなり受け入れられた。なぜなら松村北斗はアイドルになりたくて、アイドルを目指して、アイドルになった人だから。きっと松村北斗の中で、「アイドルとして、在りたい自分・見られたい自分」というものが確実にあるはずなのだ。それを表現し続けて生きていくことを彼は選んだのではないかと思ったのだ。アイドルで在り続ける「表現者」として生きる道を選んだのではないか、と。彼は表現者なのである。
私が見ている松村北斗の中に、一部、一人の人間としての素の姿があるかもしれないし、全くないかもしれない。その真相はわからない。でも、これだけ多様な顔を見せてくれて、楽しませてくれている。そして解釈の余白も残してくれている。これだけで十分だと思った。何が本当で、何が嘘かなんて、自分が信じたい姿を信じればいい。きっと彼なら信じさせてくれる。だってアイドルとしてこんなに完璧な表現者なのだから。
そして彼が在りたい姿で存在し、幸せに生きていてくれたら、私も幸せだ、と心の底から思い、そんな気持ちで「Cassette Tape」を噛み締めながら、2日目の幕は下りた。
「アイドルも悪くない。むしろいいもんだ。松村北斗なら、SixTONESなら。」
そう思った。作られた部分もあるかもしれない。でもそれが彼らのなりたい姿なら、それでいいし、何より6人が楽しんでいる姿が好きだからこそ、心の底から楽しめる状態であれば、もはやなんでもいい。6人の好きにしてください!ついていきます!
私の中のアイドル観を超越する何かを彼ら6人は持っていたのだと思う。それが何なのか、どういったものなのか、まだ私は言葉にできていない。だからこれから先もずっと、松村北斗のことを見ていたいし、松村北斗の頭の中を想像しながら、応援していきたい。
初めての生SixTONESのコンサートはいろんなことを考えすぎたような気がする。きっといつか、心の底から何も考えずに楽しめるようになった時は、今のこの言葉にできない何かを掴んだ時なのだと思う。まだ少し、それには時間がかかりそうだ。
引き続き応援させていただくしかない。
ありがとう。アイドルを好きにしてくれた松村北斗に感謝です。
ps.こんな感情を抱いた静岡公演の翌週、運命的なnoteに出会いました。私が感じたことに近しいことを松村北斗に感じていらっしゃると理解しましたので、こちらに載せさせていただきたいと思います。素敵なnoteです。是非併せて読んでいただきたいです…!
おけい
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