【読書感想】それが私にとってなんだというのでしょう?
夏はあんまり好きじゃない。夏の概念は好きだけど夏そのものは嫌だ。気温と湿度のことは言うまでもなく、虫は異様に元気だし葉は毒々しいほどの緑色になるし、春は変態が多いと言うけど夏は狂人が多いと思う。大丈夫かよ四季。
だけど愚痴ろうが泣こうがどうやっても結局夏に巻き込まれる。なれば受け入れるしかないし、折角なら楽しんだ方が粋だ。夏のイベントはアウトドアなものが多いけれど、何しろこちらは出不精。なのでとりあえず夏っぽい読書をすることにした。ホラーが定番だけれど、珍しく明るい気分だったので7月は「夏休み」というテーマを設けた結果、はやみねかおる作品を再読することになった。
ジュブナイルミステリといえばはやみねかおる、はやみねかおるといえばジュブナイルミステリ。恐らく私とって初めてのミステリがはやみねかおるの本だった。そこで私は、名探偵とは単に事件を解決するためだけではなく、みんなを幸せにするための存在(=自分が悪者になってでも)ということを頭に叩き込まれたし、そこが探偵との違いだと思っている。推理力じゃない、人間力なのだ…。うーんかっこいい。
そんな憧れの名探偵たちが出てくる作品たちについて感想を書いていく。
『そして五人はいなくなる』
有名な夢水清志郎シリーズの第1巻。主人公である三つ子の岩崎亜衣・真衣・美衣は、容姿が非常に似ていることから周囲から見分けがつかないと言われていた。ある日隣の洋館に引っ越してきた怪しいヒョロヒョロ男・夢水清志郎に、3人は三つ子であることを隠して近付くが、その観察眼と推理力から、あっさりと三つ子であることを見抜かれる。彼は名探偵だったのだ。ただし自称。
そんなこんなで夢水と仲良くなった姉妹たちは、夏休みということで4人で遊園地に遊びにいくことになる。そこで彼女たちは大規模な誘拐事件を目撃することに。初めの被害者は天才ピアニストの少女。犯人である「伯爵」からは、続けてあと4人を消すという犯行声明が出され、夢水たちはこの事件を解決すべくてんやわんや奔走する。
トリックとしては分かりやすいものが多く、ミステリ初心者にも非常に優しい本だと思う。なによりストーリーが良い。最後の夢水の推理を聞いて、彼が「自称」ではなく、本物の名探偵だと亜衣が思う流れが美しくて好きだ。
またはやみねかおるの作品の根底には、「子供たちはみな幸せでなければならない」という思想がある。そして大人たちはそれを守るべき存在でなければならないのだ、いかなる時も。
昔この本を読んだ時、亜衣と同じく誰かに幸せを守られるべき存在だった時、「こんなことを言ってくれる大人がいるんだ」と感動したことを覚えている。無条件に私たちは幸せでいなければならないんだと。例えば勉強や運動ができるとか、そういう大人に褒めてもらえるような特別な能力がなかったとしても、私たちは幸せでいていいんだと。
でももう今は私は夢水側で、誰かの幸せを守る立場になった。改めてこの作品を読むと、私は夢水のようなことができるのかとドキドキしてしまう。推理力とかそういう話ではなく、一大人として、子供を守ることができているのだろうか。いやできているのだろうかなんて生半可なことは言ってはいけない、なっていないといけないのだ。でないと昔の自分がとんでもない目つきで睨みつけてくるから。
当時と違う感想が出てくることこそが、やっぱり再読の醍醐味だなと思う。もしいつか私に子供ができたら、亜衣でも夢水でもなく、誘拐された子供たちの親という立場にまた変わる。もしかしたら誘拐犯の立場に変わるなんて日も来るかもしれない。そのときまたこの本を読み返して自分が何を思うのか、今から楽しみにしている。願わくばどんな立場になっていても、軸はぶれない人でいたい。
『ぼくと未来屋の夏』
小学校最後の夏休みを迎える主人公風太に、「未来を知りたくないかい?」と怪しい男・猫柳が声をかけることから物語は始まる。猫柳は100円で未来を売る「未来屋」と名乗り、胡散臭さが服を着て歩いているような男だったが、風太の家に居候することが決まり、あれよあれよと生活に入り込んでくるようになった。そして風太と一緒に、町に伝わる神隠しの森や首なし幽霊の話、人喰い小学校の噂、人魚の宝の謎について、解き明かしていくことになる。
主人公の家族を丸め込み家に居候している時点でお分かりになるかと思うが、猫柳はかなりふてぶてしい。風太の前では特に。だけど子供を子供扱いしない大人でもある。実際そばに居たら楽しくもかなりイヤなタイプの大人だろうなと昔は思っていたが、自分と同じ目線で楽しんでくれる大人というのは貴重なものだと今ならわかる。
風太は「そこまで子供じゃない」と発言するように、大人に憧れている性格であり、他にも背伸びをするような発言が多い。水泳道具の入ったカバンを持って駆け抜けていく小さな子供たちを見て、「ぼくにもあんな時代があったな…」と風太が遠い目をする場面があるのだけど、小6でそんなノスタルジーを抱くんじゃないよ。これから先の人生、情緒が大変なことになるぞ。一方当時の私はアホで鼻垂れ、だが連れションしちゃうような同級生を鼻で笑うマセガキという属性もあった。笑う前に鼻拭けよ。なので風太の発言に共感する場面も多かったし、今読み返しても妙に達観している部分がある風太のことはなかなか嫌いじゃない。
所謂「ひと夏の冒険もの」というのは、主人公の成長は勿論のこと、頂点のきらめきと、夏の終わりに向かう無情感などが詰め込まれたものになっている。この作品もその法則に則っているのだが、風太の性格と作品の方向性とで親和性が高いのが魅力になっている。先ほどの水泳道具を持った子供たちを見かけた場面でもその性格はよく表れているが、同級生の大助とザリガニ釣りをしたあと、「またしようぜ」と声をかけられても、「でも、もう大人になるまで、大助とザリガニ釣りをする機会はないような気がした」なんて考えてしまう子なのだ。なかなか渋い。
その渋めな風太が成長する場面で特に好きなのが、空き地である秘密基地に立っている鉄塔に登るシーンだ。鉄塔から町を見渡す場面で、殆ど心理描写はない。淡々と東西南北に何があるかが説明される。西に山、新しくできた国道、駅前商店街のアーケード通り、城跡、そして風太たちの小学校。唯一の風太の心理描写は、「これが、ぼくの町だ」という言葉。そして自分が高校に通うならばJRかバスを使うんだなと考えるのだ。おそらく昔は流していた場面だと思う。だけど今なら、風太がきっと大人になった時にこの景色を思い出すということが分かる。
あと衝撃的なことに気が向いた。猫柳、25歳だって。私とほぼ同じ歳。風太と同じ歳の時にこの本を読んでいたのに…。昔読んだ小説や漫画の登場人物の年齢を追い抜かす時に時の流れを認識して呆然としてしまう。テニプリが全員歳下って嘘だろあの顔と体格で。バルフレアさんも私より歳下なんですか?何なんだよもう。
おわりに
私にとっての「かっこいい」の1つは、はやみね作品に出てくる大人たちだった。でもそれを今まですっかり忘れてしまってきた。軸、ブレブレである。今回作品を読み直してそれを思い出せてよかった。
あと再読はいろんな作品でしていきたい。感想が昔と異なるとき、歳を重ねるのは楽しいなとしみじみ思う。
はやみねかおるは勇嶺薫名義でも小説を書いている。大人向けミステリと銘打たれた『赤い夢の迷宮』という作品も本当は読み返したかったのだが、家のどこかに埋もれてしまって見つけることができなかった。これも子供の頃に読んでいた作品だが、鼻垂れマセガキの当時よりもきっと今の方が楽しめる。知性がバリバリ最強になったので。今日から1番たくましいので。頑張ってこの夏中には見つけたい。
ちなみに今回のタイトルは亜衣が所属している文芸部の部誌から拝借した。「それが私にとってなんだというのでしょう?」、略して「それわた」。当時から印象的な言葉だったので思わず。