量子力学と仏教「私」は存在しない
量子力学とは、原子レベル以下の極めて小さいエネルギーや物質の
単位である「量子」の特殊な性質を解き明かす学問だ。
電子や陽子、中性子などの素粒子、さらにそれらより小さい
基本粒子のレベルでその微視的な物理現象を記述する力学だ。
こんな事を聞いてもあまりピンと来ないだろう。
自分は細胞分裂とか、丸い玉と棒で立体になった科学の本に
出てくるような図形とかしかイメージできない。
でも現在の最先端物理学では、
アインシュタインの相対性理論ですら過去の話らしい。
物質の構成も極小の「量子」と言う単位にまで分解できるようだ。
この量子という極小の単位で世界を見るとするならば、
そこには目に見えないほどの小さい何かの集合体でしかない。
と言うことはこの世界にあるどんな物質もまた生命体も
量子の集合体に過ぎない。
そしてそこに精神や感情と言ったものはなく、
ただの電気信号でしかないのだ。
この量子力学の発見によって得られてものは
1.光や電子など特定の物質は粒子と波動の性質を合わせ持っている
2.「量子不確定性原理」ひとつの粒子が持つ複数の性質を
正確に知ることが出来ない
これは観測者が測定した時点で確定した粒子として観測できるが、
それ以外の場合は波動のように不確定なままである。
もっと簡単に言うと、
あなたが見た瞬間に物質として家具や景色や人を認識できるが、
それ以外の時はどのような状態であるか決まっていないと言う。
???決まってないって、どういう事?
実際ものはあるでしょ?そこら中に。
否!それはあなたが今見たから確定したのであって
それまではそれがどういった物なのかは決まっていない、
と言うのが量子力学の見解だ。
まったく不思議な話だ。
しかし最先端の物理学で証明された事実だ。
仏教は、近代科学と両立可能な唯一の宗教である。
アルベルト・アインシュタイン
実はこの量子力学とほぼ同じような内容を
今から役2500年前の古代インドで
シャカムニ(仏陀)が説いているというのだ。
いま日本で仏教と言えば大乗仏教が主流だ。
同じ仏教でも歴史的な背景や伝わったルートで
度々編纂されてきた経緯がある。
しかし、シャカムニの口伝で弟子達に伝えられた教えを
纏めたとされるアビダルマ仏教の教えには次のようなものがある。
虚構存在=仮説(けせつ)
虚構存在とは例えば家や車と言ったものは
色々なパーツの集合体である。
さらにそのパーツですらもっと小さな部品で出来ている。
その部品もまた様々な素材で出来ている。
というようにバラバラに分解してもっと細かくしてしまうと
そこには家も車もないと言うことになる。
諸法無我=私という存在はない
肉体もまた様々な器官の集合体であり、
その器官もまた様々な組織で出来ている。
さらにもっとバラバラに分解していくとそこには
私という存在は何もないと言うことになる。
アビダルマ経では、「エネルギー」「精神」「物質」の
3つの要素が相互に影響しあいながら、
この世界を形成し動かしてゆくのであって、
「私」という不変の実在など見つからないと言っている。
量子の集合体とされている現代の考えと、
すべてが仮説で諸法無我だとしたシャカムニの教えって、
すごく似ていると思う。
ってことは、2500年掛けてやっと
シャカムニの教えが科学的に証明されたってこと?
なんだかエラいことになってきた。
でも似ているのはこれだけじゃない。
仏教には三世実有説という教えがある。
この世界を構成する要素は75種類の「法」である。
(「法」については長くなるので割愛する)
未来には実現する未来の法と実現しない未来の法が
何種類も混じり合った状態で存在している。
そのうちの1つの法が現在に出現し、
すぐさま過去へと過ぎ去ってゆく。
それは1刹那1/100程しかなく、
いつの瞬間もそれが起き続けている状態であり、
常に移り変わっていくことを諸行無常という。
分かりやすく言うと、
色々なパターンの未来が存在していて、
その中のひとつがパチッと現在にはまってすぐ過去となり、
もう既に次の未来が現在にパチッとはまって・・
を繰り返している、と言うイメージだ。
現代では「パラレルワールド理論」という考えが最先端らしい。
この宇宙全体が量子状態にあり、
起こりうる可能性の数だけ世界は重ね合わせ状態で
存在しておりすべて完璧に現実である。
そして宇宙の一部とまた別の一部が相互作用した瞬間に
分岐してひとつの世界に入り込む。
これはつまり目の前で起こる現実を確定させている、
世界の分岐を起こしているのは
私たち人間の観測や意識などではなく
物質と環境の相互作用によって自動的に勝手に起こると言うことだ。
驚くほど似ているではないか!
同じと言ってもいいくらいだと思う。
つまり何だ、
この世のすべて宇宙までもがみんな粒々の集合体で
「私」とか「自我」とかそんなことは何ら影響しない、
宇宙(どこまでかわからんが)全体が勝手な相互作用によって
在るべき未来を順に描き出しているってことなのか。
だとしたら、シャカムニはなんのために生きたのか。
生きることは苦である。
老・病・死から逃れることは出来ない。
人間は業(カルマ)によって輪廻し苦しみ続ける。
煩悩を払い自分自身の解脱を目指したシャカムニは、
弟子達に何を伝えたのだろう。
現世で苦しまず生きるためには
出家して悟りをひらくほかないというのか。
出家しない人は苦しむってことか?
量子力学でもアビダルマでも
時間は実在しないと認識している。
未来・現在・過去と流れているようだが、
それは人間が決めた概念であって
実際にやってきたり過ぎ去ったりしない。
事実が起きているだけだ。
ならなぜ、将来設計などする必要があるのか?
計画通りの人生を歩むことに意味があるのか?
いやいや、そもそもこの世界は現実か?
もしかしてこれは仮想現実かも知れない。
自分がリアルだと思っているだけで、
本当はプレイヤーに操作されているのかも知れない。
マトリックスみたいな世界にもうなっているのかも。
なぜなら現在も未来もそこに完璧に存在していると言うのだから。
それともここは夢の中なのか?
夢なら好きに生きてもいいかもね。
自分のことが分からなくなった迷子の皆さん。
大丈夫、みんな迷子です。
もう「自分」のことで悩まなくていい。
「私」は、初めからないんだし、
この世界はリアルであり仮想現実であり夢でもある。
ああそうか。
シャカムニはコレを教えたかったのかも知れない。
思うとおりに生きていい。
誰かを喜ばせて、楽しませて。
笑って。
きっとそれだけだ。。。
今日も読んでくださった方ありがとうございます。