大卒で失敗した奴が1番ひねくれてる
坂口安吾は、戦中に比べ終戦後のすっかり変わり果てた世相を見ながら、人間性の本然の中にある「堕落」を考察し、戦争に負けたから堕落するのではなく、元から堕落の本性が備わっているのが人間であることを洞察する。
しかしながら、一方でまた人間は、堕落しきることもできない人性も持ち合わせ、全くの自由を許されると不可解な不自由さを感じ、人間性を超えるような義士や聖女、神性を持つ威厳的なるものを追い求めて止まない生き物であることを、自分自身を顧みながら指摘している。(Wikipedia丸パクリ)
現代は基本的に親の仕事を継がなければいけない仕組みも無ければ、絶対に大学や専門学校などで学びを経て、卒業したというステータスを持たなければ食っていけない世界では無い。派遣やバイトで食いつないでいる成人も結構な割合で居ると思う。
そう考えると、僕達が生きる今はとても自由で、前の世代から見ると甘えていて、楽な世界なのかもしれない。しかしそれでも年々心療内科や精神科は予約が取れなくなり、自殺者は減らず、とても国民の過半数が「今とても幸せです」と言える様な現実では無い気がする。必ずしも自由が幸せに繋がるとは限らないのだ。
食べ物の自由度で例えるのなら、肉と野菜しか無かった頃の世界は食事の選択肢が「肉か野菜」と大まかに2ジャンルしか無かった。だから腹が空いた時に「何を食べようか」などと悩む事は出来ない。「何を食べようかはどうでもよく、食べなければならない」という言わば余裕の無い状況下であった。
これは現代から見たら不自由で可哀想と思うかもしれないが、内実、本当にそうだろうか?
「選ぶ余裕も無い」という状態は言い換えれば「選ばなくていい」と取る事も出来る。
飲食店に来て、メニューが500個もあったら僕達は「どれにしよう」と悩む・困ってしまうのがほとんどだと思う。選択肢がありすぎると、逆にどれに絞るかで困惑してしまうのが人間というものだ。そうなるとどうするか。僕達は「"この店で"美味いメニューはなんだろう」と500という選択肢の自由を捨てて、"そこにしかない物"を優先する。精密に、自由に、自分の求める物を選択出来ると言うのに、いざ多数に道を用意されると本来求めていた道が分からなくなる。変な矛盾だ。
この様に食事以外の何においても選択肢がありすぎると僕達は「なんでもいい・どうでもいい」という結論が生まれ出す。選択が面倒になって放棄する選択を取るのだ。なんて傲慢で虚しい選択肢なのだろう。
それに加えて選択肢があればあるほど「どうしよう」と悩む時間が生まれ、それが積み重なると自由であることにストレスを感じ始める。
これで
「現代は昔に比べて自由なのに、何故そんな苦しんでいる?」
という指摘は的が外れていることが分かるだろう。人間は程よく拘束され不自由な環境が至高である。漫画家が紙とペンしか無い部屋に篭って漫画を描く様に、学生が敢えて図書館やカフェに行ってテストの勉強をする様に、ベストパフォーマンスを出すのに最適なのは「完全な自由」では無い。
現代は「ゲームや好きな本が目の前にある自室の中で勉強を強いられている」みたいな環境であり、かえってやりにくい。だから食事や娯楽といった、環境の中でわざと制限をかけて生活をする人達が増えるのも言わば適材適所の結果である。それが出来にくい、欲に忠実で堕落しきった人間は「社会不適合者」の烙印を押される。生物としては最も正しい生き方であるのに。
モラルや不自由を敢えて重んじる「学校」という環境はそういう人間にとってはただの苦痛である。その上それを苦痛に感じる人間は、我慢して学生生活を終えても社会に出て失敗する。現代で大学を卒業したのに関わらず就職できない、継続して働けない人間というのは大抵「我慢して学生時代を過ごしていた」社会不適合者である。
かくいう僕もそうであるからここまで断言しているし、同じ経歴の人間はほとんどこの意見に頷いてくれると思う。タイトルの意味はこういう事だ。「我慢して学校に通い続けたのに、失敗をして社会に混ざれなかった」と結果としてただ損をしただけの気分になり、社会自体に根強い不満を持ったりしてしまう。「大卒で」、「就職に失敗」という組み合わせは最も稀で、最悪の結末なのだ。だから1番ひねくれる傾向が完成する。
ただし、自分を含むこういう社会不適合者は「正直者は馬鹿を見る」理論で人間性が欠けている事には繋がらないと思うのだ。
実際社会では素直である事よりも空気を読む事を求められる。けれども空気を読んで周りに合わせている時の自分というのは「正しい」に属するのだろうか?個人的にそうは思わない。だから世の社会不適合者はどうか自分を過剰に責めすぎないで欲しい。身体が傷だらけの僕が言えた事では無いが。
ともかく、"普通=正しい"みたいな認識は合っている様で合っていない事を伝えたい。多数派こそ正義であるのなら、発達障害者は存在するだけで悪になってしまう。現実はそこまで極端な話では無いのだから、マジョリティを軸にし過ぎると正当性がなくなってしまう。
はぐれ者にしか生み出せない物・視点・価値もどれだけ小さかろうが絶対にある訳で、「自分は普通じゃない癖に才能や秀でた物が無い」と悲観はしないで欲しい。
これは自分にも言い聞かせている。そう思わないと、僕達社会不適合者はとてもじゃないがこんな世界はやってられないから。根本の世界自体が終わってるのなら、そこに適合出来なくたってどうってことないと思おう。寧ろそんな世界の適合などこちらから願い下げ、までのマインドを持たないと明るく振舞って生きることなんて出来ない。
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