ありのままの写真なんて存在しない
デジカメで撮った写真に対して「無加工の撮って出しです!」と言うとき、「レタッチで下駄をはかせている訳ではなく、ありのままの写真の腕で勝負してます!」みたいなニュアンスを持つ。
撮って出しで勝負する方が「ありのまま」で尊く、レタッチは化粧美人みたくズルいものか?というレタッチ論争に関しては、様々な考え方があって良いと思う。主張ではなく、あくまで私個人の見解として記す。
私自身は日常的にRAW現像していて、レタッチで自分のイメージを作ることを肯定的に捉えている。なぜならば、タイトルの通り「ありのままの写真なんて存在しない」ため、撮って出しもレタッチも大差ないと考えている。個人的見解のため反論していただく必要もないのだけど、もし自分のnoteにでも見解を被せてくれたら読みたいなと思う。
レタッチとは何かを定義する
定義から入りたくなるのは理系のクセかもしれない。昨年に買ったデジタルカメラマガジン2020/7の特集「カラグレで行こう!」ではカラグレの流れを説明していた。要約すると以下の通り。
1. カラーコレクション:定量的な基準を設けた補正。例:露出補正、ホワイトバランス
2. カラーグレーディング:定量化できない表現や個性の追求。例:明暗別色補正、HSLなどの色補正
3. レタッチ:部分的な補正。例:円形フィルター、部分合成、ゴミ取りなど。
写真界隈では「1.」~「3.」のうち1つでも手を加えれば(広義の)レタッチと呼ぶ人が多い気がする。でも、フォトコンのルールに「過度なレタッチ禁止」とあれば「3.」を指していると思う。グラフィックデザイン界隈では「3.」を指して(狭義の)レタッチと呼んでいそうで、RAW現像だけだと「どこがレタッチなの?」と聞かれる。この記事では特に断りのない限り広義のレタッチを扱う。
「1.」「2.」はLightroomというツール上で左右のツマミを調整してできるRAW現像の範疇で、私も日常的にやっている。「3.」は画像上をマウス操作する必要があるもので、軽微なものをLightroomでやることもある。Photoshopを使えば、写真離れした幻想的な加工もできてしまう。
「1.」~「3.」のどれも使わなくてもカメラの機能だけで、複数回の露出を1枚の画像に合成する多重露光ができる。上の画像は、多重露光によって女の子の頭に植木鉢の花を乗せた。Photoshopでやった方が思い通りにイメージは作り込めるだろうけれど、多重露光だと一発勝負でキマる快感があって、その勢いが表現として現れる可能性もある。
かと言って、Photoshopのレタッチでなく多重露光の撮って出しだと後から知らされて、写真の評価が変わるものだろうか?...私はそう思わない。どういうプロセスで作り込もうが、写真そのものの仕上がりで評価する。
ありのままの写真なんて存在しない
物理学の側面から。例えばオレンジ色した空の写真を撮るとする。カメラの撮像素子に届く光は600nmだったとしても、撮像・表示は人間の視神経を模したRGBで表現するため、強めの赤(700nm)と弱めの緑(546nm)を同時に光らせることでオレンジの感覚質を与えようとする。
つまり、人間の目が同じように感じるように似せているけれど、写真になった時点でスペクトル成分は別物で、ちっとも「ありのまま」ではない。前回の話題とも関連する。4色の視神経を持つ鳥が写真を観ると、実際の景色とは似つかわぬ色合いに見えるのかもしれない。同じ人間でも視神経の感度には個人差があって、見え方も違うだろう。
脳の処理という側面から。人間の目ではトップ画像のトンネル写真のように見える筈がない。外の景色に注目すればトンネルの壁面は黒つぶれするし、トンネル壁面に注目すれば外は白飛びする。視線を行き来させて脳が補完することで両方同時に見えたつもりになっている。私が脳内イメージに合わせてRAW現像を試みたことで、外の景色と壁面の両方を見るという追体験ができる。でも、私の脳に沸いた質感覚を「ありのまま」のリファレンスにするなんてことは、哲学界の未解決問題に踏み入れる話になる。
撮って出しはメーカーの味付け
撮像素子が光を捉えた電圧値の数字を羅列しても、マトリックスの登場人物でもない限り映像として認識できない。原理上、誰かが味付けしないと画像にならないので、撮って出しのJPG画像が存在する時点で「誰かの味付けがなされた」と私は見なしている。
つまり、自分のかわりにNikon, Canon, Sony,...が作業を肩代わりして、センサー値を画像情報へと落とし込む処理をやってくれている。この意味でも、ありのまま無加工の写真なんて存在できない。
メーカーの味付けは、どんな画像でもそれなりに映えるようにチューニングされていて、それなりに素晴らしい。RAW現像はメンドクサイ割に、せっかく作業しても撮って出しに勝てないこともある。撮る時間を楽しみたいから、味付けがお気に入りのメーカーを選んで、撮って出しのまま完成とするのも賢い選択だと思う。
それでもやっぱり、私は自分の味付けを追及したい。「写心」という当て字があるように、自分の心に沸いた情景をデータ化するプロセスとして見ると、レタッチは重要な役割を果たす。
レタッチの歴史はカメラの歴史と共にある
「デジタルになると何とでも加工できる」という言いっぷりもあるけれど、フィルム時代から(広義の)レタッチはなされていた。デジタル化することで作業コストが下がっただけで、レタッチの歴史はカメラの歴史と共にある。
むしろフィルムの方が原理上ゴミが付きやすかったので、ちゃんとした写真に仕上げる手順としてレタッチが必要だった。焼き付けた印画紙のゴミで白くなった部分には墨を塗っていた。
フィルムを通した光を部分的に増やしたり遮ったりすれば部分的に明るさを補正できる。フィルム時代は棒の先に丸い紙をつけて動かしたり、指で輪っかを作って中だけ通していたりしたのが、Photoshopの「覆い焼き」「焼き込み」アイコンに姿を変えてデジタル時代にも生き残っている。
印画紙に光を当てる秒数でコントラストを調整するなどなど、往年のフォトグラファーに聞けば思い出話が尽きないだろう。私はフィルム現像をやったことないけれど、表現と身体性が対応している作業って面白いんだろうなぁ(でもお金はかかるんだろうなぁ)と想像する。
レタッチで凄い写真に化ける訳ではない
私が最初にRAW現像し始めた動機は、マニュアル撮影で露出をミスってもリカバーできるという情けない理由だった。でも、表現の幅が広がったり、魅力を引き出せたりすることに気づいてからは、表現の手段になった。
とは言え、つまらない写真がRAW現像を経て凄い写真に化けるかと言えば、「それは違う」と断言できる。もしレタッチで化けるのなら、凄い写真家の有料Lightroomプリセットを買えば、自分も凄い写真が撮れることになる。現実はそんなに甘くない。
料理に例えると、RAW現像は「味付け」程度でしかなく、素材そのものの味(被写体)や調理(撮り方)が大半を占める。だから、RAW現像で履かせられる下駄なんて「ズルい」と言われる程でもない。濃い味付けで誤魔化そうとしても無理はある。
シコシコとレタッチする
「だから...」と弁解する必要もないけれど、私は後ろめたさを感じずシコシコRAW現像するし、せっかく時間をかけるに値するように撮影の腕も上げたい。
わざわざ長文書いておいて何だけど、レタッチの線引きなんてどうだろうと楽しんで写真を撮ることが最も重要である。時間を費やして満足な写真が得られて、総合的な体験として楽しいならいいじゃないか。