責任を果たすための儀式
コンビニでお酒を買おうとしたら、20歳以上かどうか確認するためのボタンを押させる儀式がある。あれをどう感じるかという話。
両者の立場から考える
商売やる側の気持ちを察すると、年齢確認をしたことで法的な責任は果たせる。仕組みとして入れておくことで確認漏れが防げる。自動にすることでコミニュケーションのコストが下がるという利点がある。
年齢確認を促された初老のおっちゃんが、店員にキレる様子を撮ったショート動画を目にした。見れば明らかに二十歳以上だと分かるだろうとか、ロボットじゃないんだから人情味のある接客をしろとか主張していた。
そちらの気持ちも分からんではない。
人情味のある店を潰したのも客の選択
人間味のある接客を求めるならば、それを提供する別の店を選べばいいじゃないか。それによって接客の悪い店が選ばれず淘汰されるのが市場主義であり、現時点の私の意見でもある。
商店街に昔からある個人店で、おばあちゃんが営んでいて、物心ついた頃から家族ぐるみで付き合いあるので今更年齢確認するまでもない。年は経っても子供の時のイメージが残っているので、「大きくなったねぇ」なんて声掛けされるような距離感。そういうお店を選べばよい。
身近に無いとすれば、便利(コンビニエンス)ではないからお客さんに選ばれず淘汰されたのだろう。もし存在したとしても、自分の生活圏内にないのだろう。
コスト追及により利便性が達成できる。地価の高い場所に品揃えよく構えていられるのも企業努力である。その代償だと自分を納得させながら「20歳以上」のボタンを押している。
トラブルを避けるための儀式
20歳以上なのか、箸・ストロー・袋はいるのか、客側は自分自身の当たり前だけを考えていればよい。だから「箸は要るに決まっているだろ!無かったらどうやって食えというんだ!」とつっかかる。
お店側はあらゆるパターンを考慮して対処できなければならない。家のお箸を使うパターンもありうるから、割り箸が必要かを聞いているのだ。
年齢に関しては「明らかに20歳を超えている人ならば、聞かずに通してやれよ」も一理ある。だがしかし、「明らかに20歳」には主観による線引きの余地があり、「私は20歳には見られないってこと!?」という別のクレームの火種となる。
全員一律の年齢確認は、トラブルの火種となる儀式であると同時に、トラブルを避ける儀式という側面を持つ。
「倍は生きてますよ」と口頭で答えると、店員さんが押してくれることもある。確認には協力しており、店員さんが推すコストもそこまで大きくはない。このあたりは合理的配慮の範疇だと思う。
技術が解決した未来の話
上の方に「現時点の私の意見」と書いた。未来の可能性として、考慮に無かったものが現れて、私の意見も変わる可能性がある。
クレームおじさんも、無人レジのみであれば文字通り聞く耳を持たないので、流石にクレームは付けないだろう。電子決済側で本人確認ついでに年齢確認を兼ねるようになれば、わざわざ聞く儀式もなく達成できる。世界はそちらに向かっている。
クレームおじさんの指摘の中で「ロボットみたいな接客をしていたら、AIに仕事を奪われるぞ!」という悪態もあった。コンビニエンス(便利)を追求すれば、現状の店員業務はロボットに置き換えるのが理想だと私は思う。店員さんは店員さん側で、別のお仕事を見出して就けばよい。
最近読んだ「ロボット薬局」という本は、調剤薬局で棚から薬を探す作業をロボットに置き換える内容だった。それが薬剤師のお仕事を奪うという訳ではない。
せっかくの専門性を「対物業務」で忙殺されるのは勿体ないので、「対人業務」に注力するという理想を語っておられた。
他の分野の自動化にも通じることに思えた。人間が本来やるべきことに注力するという大義名分がなければ、ただロボットに置き換えても空しい未来となる。
自動化によって利便性は担保しつつ、人間の役割として百貨店ばりに商品選びに寄り添って談笑するようなコンセプトコンビニ——コンカフェならぬコンコン——が現れれば、クレームおじさんも満足だろう。
ただそれは、既存の業務に忙殺される店員さんに期待することではない。まだ見ぬ起業家が現れて、コンビニエンス(便利)ではない新価値を打ち出す小売り形態の創造に期待する。
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