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知恵を愛する人

10歳くらいになると、自分の名前の由来を調べて発表する場が設けられる。親から込められた願いについて友達が次々に語る。当時は「1/2成人式」なんて言葉で呼ばなかったけれど、まるで通過儀礼のように感じられた。

私の名前は、中山観音寺に3000円を払って付けられたと知った。母乳でなく脱脂粉乳だからと言って愛情で劣る訳ではない主張みたく、内作ではなく外部委託のネーミングだからと言って、手抜きとは思ったことはない。物凄く画数が良いことを知った時には、「やっぱり餅は餅屋だなぁ」なんて思ったものだった。

10歳の少年に「哲学の哲だよ」と言ってもピンと来ないこともあり、空気と同じくらいニュートラルな印象で捉えていた。「優しくなれ」「志をもて」と言える人名漢字と比べると、「哲であれ」はいまいちピンとこないし、そう期待されたこともないから無理もない。

でも、哲を意識してからの20年を振り返ると、私は哲な人になろうと振る舞ってきたことに気付く。エンジニアリングやデザインを渡り歩いていても、嗜む程度に哲学は気になっていた。そのおかげで、philosophyの訳として「哲」が充てられていて、元の言葉に遡ると「知恵を愛する」意味であると知ることができた。

そうすると、トロッコ問題やら原初状態やらに限らず、どんな対象でも知恵は愛せると気付いた。ちょうど工学博士にもPh.Dを付けて「工学の哲学博士」みたいな呼び方をするように。

ストレートに自分のことを「賢い人です」と言うのはハードルが高いけれど、「知恵を愛する人です」であれば自信を持って言える。ストレングスファインダーでも「学習欲」が挙がっていた。

2度目の成人式が視界に入ってきて、私はより「哲」に相応しい人間になりたいなと思っている。考え抜こうと、ノリで付けようと、名前は呪いなのだ。

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