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50代からのグレーゾーン(第9回)

姉は、家の中で最もまともであり、世間では少々真面目すぎるところもあっただろうが、今となっては、家族のまとめ役のような存在となっている。
私とは、兄より更に年が離れており、幼い頃から手の届かない人という印象がある。
そのため、姉が母のような役割をする時もあった。
母も、努力家で気の利く姉と私を時折比べ、「お姉ちゃんは○○できたのに」「こういう時、お姉ちゃんは○○してくれたよ」などと、ボヤいていた。
姉や兄はスポーツが普通にでき、運動会ではリレーの選手にも選ばれていたが、私には運動神経というものが存在していなかった。
また、ピアノを引きこなす2人に比べ、私には全く才能がなかった。発表会は、寝たフリをして出場を棄権するという、ありえない技で乗り越えた。

姉と兄にあるものが、私には何もなかった。

大人になった私は、自分がどんな子供だったかを母に尋ねたことがある。
「お兄ちゃんが大変で、あまり覚えていない」との返答であった。
良く解釈すれば、手のかからない子だったとも取れる。
そう思うことにしたが、客観的に見た幼少期の私がどんな子だったのか知ろうとしても、もはや誰にも分からない。
この存在感の薄さは、末っ子特有なのだろうか。
証言や思い出話をしてくれる人は特にない。

生後間もなく生死を彷徨う病に罹った私は、大事を取り幼稚園には年長の1年間しか通えなかったと聞かされて育った。
ひとつ上の姉は早産のため、生後数日で亡くなったそうで、私はその直後に授かった子どもである。その私をまた亡くしかけて、母の心労はいかなるものかと、今になればよく分かる。
父からは、その姉が存命ならば、私は生まれていないと何度か言われた。
後に私は「だったらこの世に生まれなければよかった」と、辛い体験をする度に、そう考えるようになった。

一命を取り留めた可愛い赤ん坊だが、いつまで経っても側にいる環境には、母も、正直辟易していたのかもしれない。
しかし、私は完全に母に依存していた。母が大好きであり絶対であった。
その分、母からの言葉は重く、幼少から言われたことをたくさん覚えている。
優しい母も勿論いた。
だが、厳しい母もいた。

私は、年を追う毎に母の言葉にがんじがらめになり、母亡き後も、未だに自身で縛り付けているのかもしれない。

次回に続く・・・

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