整うには壊れている必要がある気がして
平均睡眠時間10〜12時間
ここのところ私の平均睡眠時間が異様に延びている。
自律神経を壊してはまた直しての繰り返しで、
壊して直しての動作を繰り返すうちに一生を終えていくのだと思うと、早くこの壊して直してを一生を終える前にその繰り返しを終えて、人生の次のフェーズに行きたいような気もするもんで。
整うということは壊れている必要があるのか
サウナで整うだとか、自律神経を整えるだとか。
壊れていなければ整えることもできないのが、なんか現代っぽい。ストレス現代っぽい。壊れている前提なところが特に。
整うには、みんな壊れていなければいけない。
整うということの裏側に、
みんな疲れているんだ
整えることを欲するくらい疲れるのが当たり前なんだ
というメッセージを孕んでいるような気がして。
壊れないのが良い
そう思うけど。それも無理な話で。
じゃあ壊れても良いかと言われると、壊れたくないわけで。
だから間をとって、どうせ壊れるならまたすぐにリスタートできるように上手いこと壊れたい。
愛は壊れたら終わり
バチェロレッテ2を見ていて、回を重ねるごとに次々と男性が愛する女性に別れを告げられていくのが人生の出会いと別れをそこに凝縮してしまっているようで、別の惑星から、それをぼーっと眺めているような心地がする。
片方の想いはどれだけ強くても、それを選ぶ側も、それを傍観している私も、響くものはそこまで変わらなくて、見ている側からして選ぶ側へのストレスがないのがこの番組を推せるポイントである。
脱落していく人は、みんな愛する人と結ばれたいという思いと行動の一致に欠けているし、幼い頃に少女漫画で見ていたような優しくて面白くて、みたいな完璧な男性はむしろ外野に置かれて、そんな人たちは内野を盛り上げる役に回されてしまう。
エゴしか勝たん。
綺麗な物語こそ、その先に危うさがあり、私利のために動くほど、マウントをとっている人のように見られる。利他主義で走り回って結果自分を傷つけまくっていた頃を思い出す。
お前が幸せだったら周りも勝手に幸せになるから
という言葉で我に返ったことも。
自分の心と体はいつだって整えることができるが、交わした愛は壊れたら終わる。整えることもできないままに。
バチェロレッテと自分を整えることに慣れていそうな社会的にも成功している男たちが、整えたり、修復できない状態にまでただただ堕ちていく様子が、選択の連続である人生をまさに体現していると思う。
整えられるのは結局自分のことだけなんだと思う。