与えられたものを受け取るのは義務か
与えられるのがくるしい
深い眠りから覚めた時に、ふとそう思った。
普通の人にとって、与えられることは幸せなことで、誰もが求めることなのに。
私だって与えられることは嬉しいとは思う。
不意に飴ちゃんをもらったら嬉しいし、他人からの無性の愛みたいなものも注いでもらったら発達段階の赤ちゃんみたいに満面の笑みで喜ぶ、今だって。でも、
うれしいけど、くるしい。
誤解を生まないように言うと、与える人に感謝はしているし、与える人の与えたいと言う気持ちはまっすぐにこちらも受け取りたいと思っている。
その人の優しさであり、私を想っていることの表れだから。
だけど、誰かがせっかく与えてくれた想いをいつもまっすぐに受け取れるとは限らない。
目の前のコップにいっぱい水が入っていたとする。
そこに、誰かに食紅を一滴垂らされる。
これ入れると、コップの中が可愛くなるよ!って。
でも一滴垂らされた途端、水の表面張力が耐えきれなくなって、コップの中の水は膨れ上がり、びちゃーっと溢れる。
溢れるのが1滴だけならまだしも、すでに入っていた分までこぼれる。
想いを受け取れない時は、私が与えてもらうことを渇望していない時だ。
与えてもらう前に、自分が今どのくらいのキャパシティがあるのか、キャパシティを超える量を今から与えられるとして、今自分キャパシティの中に入っているものが、外に溢れても大丈夫か。
それがわからないと、私は与えられることが苦しいと言い続けるのかもしれない。
いつもお世話になっている大人に、ご飯をご馳走になった時、
「いつもいろんなものを与えてくれてありがとうございます」
とお礼のつもりで相手を立てるために言った時、
与えてないです。与えるのはエゴですから。
と、急に真面目な顔で言われたことがある。さっきまで酔っ払っていたとは思えないほどに。
与えてもらうことに、苦しみを感じるのは、相手の犠牲が見えるからなんだろう。
動作の裏側に"私のために" が見えるから。
需要と供給がミスマッチだった時に、断りづらくなるから。
だから、断るときは、与えてもらうことと与えてもらう背景をできるだけ切り離して考えるしかない。
与えてもらったつもりでも相手は与える気がなかったりするし、逆に与えたくて与えてくれた場合、相手の好意を拒否したみたいな状態になると思う。
与えてもらったのか与えたいと言う気持ちをもらったのか。
大きく違うな、などと。
以上桃を今冷やしながら考えたことでした。桃冷えたと思うから桃食ってくる。