見出し画像

らしさの武装と嗅覚 7


長野君が結婚するらしい。
社内に彼女がいるのは知っていたけど…。この前お相手の植野さんが、わざわざ私にも挨拶してくれた。

長野君の彼女さんの名前が「彩ちゃん」だというのは知っていた。でも、個人的に話をしたこともなくて、まさか私にも結婚の報告をしに来てくれるとは思わなかったから、ちょっとだけ驚いた。私が少しの間長野君をサポートしてたから?でも、それももう2年近く前の話。そんなところにまで気配り出来るのって凄いなぁ、ちゃんとした素敵な彼女さんだなぁって、ちょっと感心した。

麻奈ちゃんとの楽しそうな声が、聞こえてはきてたから話の内容は分かってた。でも、私がその輪に入って行くのも、お祝いを言いに行くのもなんだか違う気がして…。今思えば少し失礼だったかも…。

長野君は、私と同い年だから今年25歳のはず。お付き合いしてどれくらいなのかな。長野君が入社3年目だから、お付き合いもそれぐらい?男の子の社会人3年目での結婚は、早いんじゃないのかな?結婚の決め手って何なんだろう。彼女の年齢?付き合ってからの年数?プロポーズは、やっぱり長野君からなんだろうか?色々聞いてみれば良かったかも…。

でも、長野君もまだ私たちのことを彼からは打ち明けられてなさそう…。私がこのタイミングであれこれ聞いちゃうと、話が妙な方に行ってしまう可能性もある。彼の田舎の彼女のことを知ってる人だっているし、この時期に二股なんて噂が立つのは、2人にとって絶対によくない。今はまだ社内で親しげに話したり、恋人同士だと取られるような行動は控えておくのが無難。これからの2人のために、今は私も我慢しなきゃ。映画や食事に誘ってくれる時にいつも麻奈ちゃんが一緒なのも、公にする時期を彼が探ってくれてるあかしなんだから、私が勝手なことをして彼の考えてくれてるシナリオを台無しにするなんて有り得ない。

麻奈ちゃんには申し訳ないんだけど、彼女が彼と一緒に居ても、もう誰も気にも止めない。彼が食事や遊びに彼女を誘ったり、彼女にプレゼントを渡したりしても、それに対して勘ぐられることもない。彼女も、私たちのことをあやしむ様子もないから、それを今は利用させてもらってる感じになってる。私も今はそれが凄く有難くて、もう少しだけ…って、心の中で手を合わせてる。ごめんね…麻奈ちゃん、そのうちちゃんと話すから。

でも最近は、そんな時間もなかなか取れないのが、少し寂しい。この時期忙しいのはお互い様だし、落ち着けばまたご飯や映画やドライブなんかにもきっと行ける。これももうしばらくの我慢。私たちの仲が知れ渡ったら、周囲がやりづらくなるだろうなっていうのは、私にだって分かってる。確か長野君の彼女さんは、別フロアで経理か何かの事務方だったはず。私たちもそれぐらいの距離感なら良かったんだけど、そんなこと今更言っても。先々のことを考えると、早めに私の方が異動願いを出した方がいい。このことは、やっぱり彼に相談してから決めたいんだけど、賛成してくれるかな。とにかく私たちのことを公にする前に、ちゃんと2人で話しておきたい。長野君たちは、どんな順番で色んなことを決めていったんだろう。あぁ、やっぱりそれとなくでも、何かしら聞いておけば良かった…。


・・・・・・・

……さん…とみおかさん…

呟くような声の切れ端が耳に引っ掛かる。顔を向けると右横に田中さんが立っていた。

田中さん、そのファイルは奥の棚にって教えたよね? 彼女が大事そうに胸に抱えているファイルは、ついさっき片付ける先を指示したばかりのもの。彼女はずっと何をしていたんだろうか。すると、ぼそぼそと彼女がまた何か言う…けど、全然耳に届いてこない。

田中さん、もう少し大きな声で話してくれる?

この春、私の下にも新人が入ってくることなり、入社5年目で漸く部下が出来た。同じ短大だから…マネージャーから言われたのはそれだけ。出身校が同じってことが、配属の理由?それだけのはずないんだけど、その後を聞く隙は、もちろん与えてはもらえなかった。とりあえずは、業務内容を簡単に説明して、毎日やりながら覚えて行って貰うしかない。私だって数か月で先輩が消えて、その後ずっと一人でやって来たんだから、そんなに難しい業務はないはず。だけど…。

彼女からの返答を待ってると、前髪が僅かに掛かるその目が段々潤んでいくのが分かった。虐めてるわけじゃないのに…。ちゃんと聞こえるように言ってって言ってるだけなのに…。泣きたいのはこっちの方。一日に何度も同じことを注意しなきゃならない身にもなって欲しい。

涙目の田中さんは、ひょこんとお辞儀をすると、フロアの入り口を目指して小走りで私の前から消えた。そのファイルは奥の棚って言ったよね?方向が逆だよね?これは私が追うべき?違うよね?涙を見せたらなんでも許してもらえると思ってるのだとしたら、私には通じないから。女の涙を一番嫌うのは女なんだよ、田中さん。もうしばらく我慢してみてそれでも変わらなければ、マネージャーに相談して彼女を異動させて貰う方向に持って行くしかないのかも。仕事以前に、すぐに涙をみせる子が部署変えぐらいで社内でやっていけるようになるとも思えないけど。

どうしてこんな子が、今私の下に……。異動願いを出したいのは私の方なのに、何も出来ない彼女を1人を置いて、私が先に異動なんて出来るわけがない。お願いだから、私の幸せを奪わないで。


・・・・・・・

背後で人の動く気配がした。麻奈ちゃんが戻ってきたんだ。おかえりぃー。お疲れ様っ。と明るさを意識して、振り向きざまに声を掛けた。

あ、只今戻りました…。それだけ言うと、麻奈ちゃんは荷物を持ったまま、バタバタ上司のデスクへ向かってしまった。やっぱり忙しいんだね。前まではよく、こんな時もくだらない話をして笑わせてくれてたのに。最近は何だか毎日慌ただしそうで、デスクに居る時間が前よりかなり減ってる。麻奈ちゃんもだけど、上に立ってる彼の方がオーバーワーク気味なんじゃないだろうか。彼女も3年目なんだから、もう少し要領良く仕事をしてくれたら彼も楽になるのに。あそこにも新人を入れてあげるか、仕事の割り振りを考えてくれれば良いのに。このままじゃ彼が潰れちゃう。私に何か手伝えるような、補助出来ることがあればいいんだけど…。

肝心の彼は、麻奈ちゃんと一緒には戻っては来なかった。車を回してるのかな?1人で別の所に顔出しにでも行ったのかな?いつも通り、フロアメンバーのスケジュールの中から、彼の箇所を確認してみたけど、新しい予定は入ってなかった。予定外の仕事?麻奈ちゃんを置いて1人で動くこともあるけど、新年度になってからデスクを空ける時間が増えてる感じもする。こう外回りばかり続くってことは、彼を営業に配置換えしようって話が、何処かで出ている可能性があるのかもしれない。彼は人当たりも良いし、取引先からも結構信頼されてるみたいだから、無い話じゃない。でも、時期的に今すぐってことはない。動かすならこの秋?何だか嫌な予感がする。もしそうなら……、私が異動願いを出すタイミングも変わってくるし、そもそも私と彼が、同じフロア勤務じゃなくなれば良いだけの話なんだから、彼の異動が本当なら私が動く必要はなくなる。彼に目を止めそうな人って、誰なんだろう。誰に聞けばわかるんだろう。あぁ…やっぱり彼と話がしたい…。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?