らしさの武装と嗅覚 4
したんだよね、私…キス。
されたんだよね、昨日。
信じられなくて、あれから何度も何度も反芻している。ほわん からの ぎゅっ のあの感触。リップが唇に触れる度に、身体の奥の方がじぃんと熱くなって、あぁ…って。
彼は………肩の骨が硬くて、今までに嗅いだことのない奥の深い良い匂いがして、唇は柔らかくて、睫毛が短くて真っ直ぐで…背中に温もりが伝わってきて、男の人って硬そうに見えるけど、実は案外柔らかいんだって…私の方が少し背が高かったことも、昨日初めて気がついて、なんだか急に申し訳なくなってきて…
・・・・・・・
富岡さんに出来ること…ですか。
そう言って貴方は、しばらく口をつぐんでしまった。
ごめんなさい。大丈夫です。忘れてください。これが精いっぱいだった。面談の話なんて、担当じゃない人に話すことじゃない。そんなこと、私にも分かっている、でも。
大丈夫?
と、運転席から聞こえた心配そうな声と、気遣って掛けてくれたラジオから流れてきた懐かしい曲、あの時溢れ出してしまった。たぶん、いつの間にか飲み込んでた沢山の何か。社内にも、私のことを気に掛けてくれている人がいたんだ……と。涙が落ちそうになった。
人を判断出来るほど経験豊富でないこと、面談者と年齢があまり変わらなこと、お願い とたったの一言で済まされたこと、断る勇気と理由を探せなかったこと、渡された資料が資料とも呼べない代物だったこと、そして、私に何がしてあげられるのか、私が面談をする意味は何なのか…。
堰を切るというのはこういう事を言うんだと、話切った後に気付いた。貴方にすれば迷惑でしかなくて、ごめんと謝るしか、忘れてとお願いするしか。あとはもう、私は俯いたまま黙るしかなかった。私が遠山さんの件を口走ってしまったせいで、貴方を困らせてしまった。貴方より2年も早く、社会に出てるのに……。
それからのことは思い出そうとしても、記憶がブツ切れのようになっていて、なんだかうまく繋がってくれない。潮風にあたった、確か海を見に行こうと誘ってくれて。気晴らしにって。特別なことじゃなく、気軽によく行くって。海の近くで育って…だから潮の香りが好きだって…。昨日連れて行ってくれた海も、小さい舟が数隻泊まっている小さな漁港のようだった。車を降りて、少し歩いて、岸壁から濃い色の海を覗き込んで、近づき過ぎると危ないって言われて……それから…それから、ふわっと柔らかいものが唇に触れて…貴方が誰で、自分が誰で、ここが何処だか色々分からなくなって、なんだか全部がどうでも良くなった。
でも、最後に言ってくれた言葉、嬉しかった。
・・・・・・・
午後のミーティングルームは薄暗い。ブラインドのあちら側には、青空が広がっているのに。音を立てない電波時計が、するすると時を進めていく。テーブルに伏せたスマートフォンを裏返し、時刻を確認した。
14:20
電波時計と同じ。当たり前か……。開きっぱなしのファイルに目を落としても、新しい発見は何もない。住所・氏名・生年月日・年齢・性別・所属部署だけのこの書類に、何の意味があるんだろう。こんなペラ一に、彼女-遠山佳織の一年余りを閉じ込めてしまえる現実。私だったら、何枚になるんだろう。もう少し付け足される「何か」は、あるだろうか。
書類をぼんやり眺めていると、スマートフォンが小刻みに震えた。遠山さん!? そんなわけはない……。
画面には「マネ」の文字。慌てて画面をタップし、スマートフォンを左耳にあてた。
はい、富岡です。
あ、富岡さん? ご苦労様。もう、仕事に戻ってくれる?
通話は一方的に切られた。仕事に戻れ……とマネージャーは言う。
予定10分前に席を立って、ここに来て、空調を確認し、ブラインドを閉め、余分な椅子を退け、給湯室でプラカップに珈琲を注ぎ、ただ待つだけだったこの時間。これは仕事ではなかったみたい。
14時開始の面談。この中途半端な設定は、たぶん彼女に対する会社側の唯一の歩み寄りだったはず。でも、彼女は来なかった。電波時計は14:30。私のスマートフォンも、もちろん14:30。
冷め切った珈琲を持ち、給湯室に向かう。温かいまま、2人でこれを飲んでいたら、何か変わったんだろうか。私に何か変えられたんだろうか。飲み干されることのなかった朽葉色の液体が、傷だらけのシンクの中で、蛇口からの水に押し切られるように、滲みながら薄まり広がっていく。
有ったことも、居たことも、全部無かったことになる。そんなこと、現実では当たり前のことなのかもしれない。「ある」とか「いる」とかって、なんなんだろう。「ない」って、何? みんな、勝手に思い込んでいるだけなんだろうか。私の見ている「ある」と他の人の見ている「ある」は、もしかしたら違うのかもしれない。でも、そんなこと考えても仕方がない。私は私でしかないんだから。
入り口から見るフロア内は、今日も人影がまばら。1人黙々と作業する人、何か相談でもしているのか、デスク越しに顔を寄せ合ってる人たちもいた。マネージャーのデスク横で、私が預かっていたファイルを差し出そうとするよりも早く、すれ違いざまの挨拶のような軽やかさで、彼の右手がすっと上がった。
それ、シュレッダー掛けといて。
顔も上げずに、彼は言った。
シュレッダーに書類をセットする。紙が擦れて刻まれていく音さえさせず、遠山佳織は資源ごみになった。こんなものか…。何が嫌だったんだろう、何かしたいことはなかったんだろうか。私の午後の30分を奪い、彼女は静かに消えた。
あ、お疲れ様でぇーす!麻奈ちゃんが、私に向かって微笑んだ。満面の笑み。おつかれ…私が言葉を返す頃には、もう彼女の目線はデスクの上。
彼女の奥隣にある結城君のデスク。開け放たれた引き出し、手に持つファイルから抜き取った書類を、麻奈ちゃんのデスクとの境に積む。雪崩れて行くファイルと紙の山。もう結城ッ!いい加減にしてっ!と叫びながら、雪崩を押し留めている麻奈ちゃん。大丈夫?と、声を掛けると、右手で雪崩を堰き止めながら、私に向けて大袈裟に溜息をつく素振りをし、そして笑った。
……その間、貴方は顔を上げなかった、一度も。私がフロア内を歩いて来た時も。麻奈ちゃんのお疲れ様の声が聞こえた時も。私が麻奈ちゃんに声を掛けた時も。麻奈ちゃんのデスク近くには、短く見積もっても3分は立っていはずなんだけど……
貴方と私は部署が違う。それはわかっている。
でも、昨日「大丈夫か?」って気に掛けてくれた貴方に、お礼だけはきちんと伝えたかった。結局、私に出来ることは何もなかったけど、それはそれで仕方のないことだと思えた。だから「ありがとう」が言いたかった、貴方に。
でも、貴方はこちらを向いてはくれなかった。ずっと資料と睨めっこしたままで。だいたい私の声は、麻奈ちゃんほど大きくもないし、通らない。貴方に直接話し掛けたわけではないから、気付かないのは仕方ない。
そう、今は仕事中。貴方も私も。今は諦めて、業務に戻る。
席に着くと、いつも通り後ろから麻奈ちゃんの声が響いてくる。貴方との会話の内容が分からないのが、すごくもどかしい。貴方の声は低くくぐもっていて、私のところまでは届いて来てはくれない。
麻奈ちゃんっ!少し声が大きいよっ!
私は振り向きざまに、そう言い放っていた。
無理しなくてもいいんじゃない。
昨日の貴方の言葉を思い出して、私は唇をキュッと結んだ。