お節を作らなかったお正月に思うこと


このお正月、お節をまったく作らなかった。結婚以来見様見真似で作り続けてウン十年。

20年ほど前までは、三が日通して20人以上の来客があったので、場繋ぎとしてお節は必須だったし、料理をしない義母の元に二人分のお節を届けていたこともあった。どうせ大量に作るんだから、そこから取り避ける2人分なんて可愛いもの。

年末に500ℓ越えの冷蔵庫が一杯になるほどの食材を買い込み、容量確保のために野菜はベランダに段ボールごと放置し、居酒屋か!って言うぐらい一日中酒の肴を作り続けていた気がする。

まだバブルかその余韻がある頃だったからか、酒屋のようにビールをケースで持ってくる奴、見たこともない箱に入った洋酒、大量の鴨肉やホールケーキを何個も持ってくる奴もいた。正月明けに色んな種類のお酒の処理には本当に困った。子らも信じられれないぐらいのお年玉を手にしていたはずだ。

子らが大きくなったこと、来客それぞれが家庭を持ちだしたこと・・・いろんな要素が加わって、やらなくなった。

よくやっていたなと思う、今はもう出来ない。

ただ、素人の料理を美味しいと言ってくれる顔、前に食べたあれが食べたいとリクエストしてくれる奴、大丈夫か?と狭い台所に来て手伝ってくれたり、有り物で勝手に料理しだす奴(手伝いに来るのは大抵男子)、子どものオムツ替えをしてくれたり、お風呂へ入れてくれたり、ストーブの給油をしてくれたり、食材が切れたからと買い出しに車を出してくれた奴、気が付いたら片付けをしてくれてた奴、来客というより家族が増えた感じのお正月。

今日此処へきてやっと正月だって気がする、此処に来れば誰かいる・・・と言ってくれる人もいた。

そういう人たちと一緒に同じ時間を過ごす楽しさが、準備や当日のバタバタを遥かに越えていたんだろう。



ハレの日は、ともに分かち合える誰かが居て初めて成立するのか・・・と。


ただ、うちの母は1人暮らしが長いせいか「自分の口を祀っておく」と言って未だに行事ごとを慎ましいながらもやる。この台詞、あまりにも聞き慣れ過ぎていて特に何も思わずにきたし、どちらかというとそこまでしなくても・・とさえ思っていた。

でも、本当はそうじゃないのか?って、年末に思った。

我が家が節句事をしなくなったのは、子らが少し大きくなってきた頃の男三人のリアクションの薄さ。


七草がゆ… 草なんて食いたくない
雛祭り… 女の子なんておれへんやん
端午の節句… どこがうまいかわからん。お風呂に葉っぱって何なん??
七夕… ここまで来るとリクアクションすらない


 

1人で節句の説明をして盛り上げたりする気力が段々湧いてこなくなった。


決定打はこれ

妙なことせんといつもの、普通のご飯でええやん



まぁ、こちらとしても可愛かったり見栄えのする料理が作れるわけでもないからね。段々虚しくなるのよ・・・・一人で馬鹿じゃね?って。


・・・とつらつらと考えてて思った。

ずっと誰かの為だったことに。

子どもがいるから、子どもが小さいから行事ごとはきちんとしなきゃ。ちゃんとしたお母さんで居なきゃ。

自分が楽しいからってところから発生してなかったこと。自分がやりたいからやるっていうのが欠けてる。

全くやりたくなかったわけじゃないけど、きちんとやってるんだからもっと喜べよ!という気持ちがあったのは確か。

喜び なんてのは、こちらが操作するものじゃない。

家族で楽しく なんていう外からの情報に振り回された挙句に疲れてただけじゃんって。


節供はそもそも節句に供えるモノであって、そのおこぼれに預かるっていうのじゃなかったか。


正月は五節句には入ってないけど、お節を作る本来の意味って、正月は火や刃物を使っちゃいけないからって聞いたことがある。かなり粗食だった昔なら、お節も充分にご馳走だったんだろうけど、伝統的なお節ってほぼ煮物だし(ローストビーフや中華お節なんてのは、ご馳走って言う感覚からそういう方向になっていったんだろうなぁ)、大量に作ってた癖で量の塩梅がよくわからない。何より冷たい煮物は旨くない!


そう言えば以前、小さな小さな朱塗りの重箱にちまちまつまったお節を作ってみたいと思ってたことを思い出した。来年はそっち方向に舵をきってみようかな。同居人に好き嫌いは無視して。笑



そんなこんなで、自分が楽しいこと嬉しことを起点に物事を考えてみようかと思う2022年。


もう「誰か」ありきを止めようと。




「アタシ」と「今」を大事にしても良いんじゃないかな、もう。




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