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らしさの武装と嗅覚 9


有給を消化して二日ぶりに出社した私が目にしたのは、空になった隣のデスクだった。もともと物で溢れているようなデスクでもなかったから、最初は気づかなかった。椅子の背に畳んで掛けられていた膝掛、お気に入りだと言っていたフォトフレーム…、みんな綺麗になくなっていて、あぁ、居なくなったんだって思っただけ。まぁ、田中さんが居なくなっても、私のやることは変わらない。半年ぶりに1人に戻ったってだけ。


仕事に取り掛かるためにパソコンを立ち上げると、珍しくマネージャーからのメール。

13:00にミーティングルームへ

たった一行。送信は2分前。ついさっき横を通ったのに。その時、声を掛けてくれれば済んだ話だと思うんだけど。私が休んでいる間に、突発的な何かがあったのかな?それで、その対応を考えるってこと?だとしたら、概要ぐらい書いておいてくれても良いのに…。じゃないと、対処のしようもない。でも、今朝もフロアはいつも通りの穏やかさで、特に何かが起きた風でもない。だいたい、今のうちに有給を取っておいてと言ったのもマネージャーだし。ちらっと後ろも振り返ってみたけど、フロアにマネージャーの姿は見当たらなかった。席を外す直前に、慌ててこのメールを打ったってこと?緊急?なんなんだろう?今、仕事はさして忙しくはないけど、急ぎの仕事はあまり好きじゃない。大したことじゃないと良いんだけど。


・・・・・・・

ランチを後回しにして、先にミーティングルームへ行くことにした。12時55分。ドアを開けると、真正面に座ってるマネージャーと目が合った。早っ…。慌てて一礼する。特に準備するものも思い当たらないから、5分前で大丈夫だろうって思ったのが、まずかったかも。ドアもちゃんとノックするべきだったと後悔した。でも、もう全部遅い。すいません。遅くなりました。そう言いながら、マネージャーの横に回りこもうとすると

そこへ

真向かいを掌で示しながら、さらっと言われた。え?対面?

じゃ、始めます…

マネージャーと2人きり。差し向かい。何これ?席に着くのとほぼ同時に、私の前にすぅっと一枚の紙が押し出された。「内示」と太字で書かれた下に私の名前。え?内示?紙を眺めている私の頭の上を、マネージャーの声が通る。

新しく作られた部署です。来週からそちらの業務に就いてください。

淡々と喋るマネージャーの声が私の体を素通りして行く。異動願を出そうとは思っていた。思ってはいたけど…。彼への相談もまだだし、もちろん他の誰にも話してはいない。なのに、どうしてマネージャーは知ってるんだろう、私が異動を考えてること。態度に出てた?ここ最近のマネージャーとの会話を必死に思い出そうと、記憶を手繰り寄せていると

何か質問は、ありますか?

我に返って顔を上げると、マネージャーがじっと私を見ていた。

え?あの、どうして私なんでしょうか。あの…。急に質問と言われても、咄嗟には出てこない。今現在の仕事の引継ぎはどうするのか、新しい部署での私の仕事は何なのか、そういうことを普通は質問するものだと気付いたのは、デスクに戻ってからだった。

どうして富岡さんなのか……、そうですね。きちんと理解しておいてもらった方がいいかもしれません。

マネージャーが私を真正面から見据えながら、話し始める……でも、頭の中は、急に降って湧いた異動で、私は彼とこれからとどういう風に事を進めて行けばいいんだろうと、何が変わって、何が変わらないのか、思ってたことがすんなり進み過ぎて、今まで思い描いていたことが全部ごちゃ混ぜになる。色んな思いが浮かんでは消え、また浮かんで…、それを繰り返しては複雑に絡まり合っていく…、ずっと説明してくれているマネージャーの声は、私の中ではすっかりBGMに成り下がっていた。だって…、本当ならまず彼に、私の状況が変わったことを報せて。そして、彼ともう一回相談し直して、それから…。


では、これで…。

マネージャーのこの言葉で、パッと一気に現実に引き戻された。ぼんやりした頭のまま、席を立ちドアの方に向かおうとすると、

内示ですから、もちろん他言無用で。

背後からマネージャーの声が身体をすり抜けて行く。なんとかドアの前で一礼だけして、ミーティングルームを後にした。とりあえず、デスクに戻って…。でも、今日はもうデスクの私物を片付けたら、帰宅して良いと言われた。明日は、また有給消化で休暇を取って、週明けから新しい部署へ……。彼にはいつ言えばいいのかな?他言無用って、どこまで適用されるんだろう。家族は大丈夫なはず。じゃあ恋人も大丈夫なのかな。今朝、姿は見かけたけど、彼はまだフロアに居るだろうか。もう心配ごとはなくなったよって、早く教えてあげたい。きっと凄く喜んでくれるはずだから。彼に異動の理由を聞かれたら、なんて説明すればいいんだろう。マネージャーの説明は、ほとんど聞けてなかったし。でも、新しく出来る部署への異動ってことは、抜擢ってことなのかもしれない。きっと今までの私を、マネージャーはちゃんと評価してくれてたってことなんだろう。とにかく、希望を出すまでもなく異動が叶った。これでやっと彼と私のことを公に出来る。ついこの前、彼がデスクを移動して、これってもう大丈夫ってことなんじゃない?って思ったりもしたけど、フロアが同じってことに変わりなくて、結局、姿を見たり声を聞いたりする機会が減っただけで、いつ限界が来てもおかしくない最悪の状態だった。今回の私のは、彼のとは違うしっかりとした異動だから、もう周りに無駄な気を遣わせることもなくなるはず。もしかしてマネージャーは、私たちのことにも気付いていたのかな。絶えずフロア全体を気にかけているから、些細なことも気付いて気に掛けてくれたんだとしたら、それへのお礼もきちんと言っておくべきだったかも。いや、お礼を言うにしても、そこはちゃんと彼と相談してからじゃないと。勝手に1人で突っ走ってしまわないように気をつけないと。


・・・・・・・

結局、私物といっても、膝掛け用のストールと少しの文房具ぐらいで、肩透かしを食らった気がした。これぐらいなら、今日のバッグだけで充分。

書籍類は共用のラックに返却した。紙資料は仕分けするとファイル2冊に収まってしまった。最後に、引き出しを一段ずつ確認して、パソコンの電源を落とし、デスクに椅子を納めた。空になった私のデスク。もう、元デスクだけど。

いつも通り静かな午後。出社している数人の同僚は、みんな何かの作業中で、私がヒールをコツコツ言わせながら、奥からフロアをゆっくり横切ったぐらいでは、誰も顔を上げたりはしない。いつも通りのフロアの風景。一応、挨拶をしてからと思っていたマネージャーは、デスクには居なかった。同じ島の一番奥にある彼のデスク……も、無人だった。でも、大丈夫。今度からは、周りの目を気にして気持ちを無暗に抑え込まなくて良い。私はもう自由になったんだから。私の本当の幸せはこれから、今から始まるんだから。

フロアを出てエレベーターホールに向かう。下降ボタンを押し、エレベーターの到着を待つ間に、今日の夜、電話で彼にどういう風に報告しようかと考えるのも楽しい。第一声は、やっぱり何があったと思う?って、こっちから尋ねるのがいいかもしれない。たぶん彼は正解できないだろうけど。でも、驚きながらもきっと喜んでくれて、良かったねって言ってくれるはず。だって、これからは 2人でランチにだって行けるし、仕事終わりにそのままデートだって出来るんだから。

そうだ、少し遅めのランチになったけど、前から気になっていたお店に寄って帰ろう。彼とのランチの下見も兼ねて。


・・・・・・・

富岡がフロアを去った数分後、マネージャーがフロアに戻ってきた。その足ですぐ、デスクに伏せていたファイルから抜き出した書類を一枚、シュレッダーにセットする。数行の簡素な書類が、徐々に下から機械に吸い込まれていく。


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・業務に無関係な社内情報への度重なるアクセス
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・著しい業務の停滞
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・新人育成における総合的視野の欠如
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最後に

富岡由香に関する報告書 

と記された箇所が、静かに給紙口に飲み込まれていった。ダストボックスに落ちて行く細切れの紙片を眺めながら、彼がついた小さな溜息は、後ろに控えていた田中明日香の耳に響いた。








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