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らしさの武装と嗅覚 3


まずかったな

左肩に薄い温もりと重みを感じながら、俺は久しぶりに悔やんだ。完全に体を預けてはこない。異性に寄り掛かることの意味を、一生懸命探っている感じが洋服越しにじんわりと伝わって来る。これは、ちょっとアレかもしれない、久しぶりにつついちゃいけないモノを突いたかもしれない。

俺は、富岡さんに添えていた左腕をゆっくりと外しながら、大丈夫ですか?と、首だけ少し右に傾けて顔を覗き込むていを装った。キスしておいて、大丈夫ですかも何もないんだが。慌てて身体を戻した富岡さんは、小さく頷くだけで下を向いたまま。暗くなる前に送って行きますね。体が離れたのを機に、わざと声を張り、明るく言い放った。空気を変えないと。このままだとヤバいぞ。俺は気持ちの上でも、拳にぎゅっと力を入れた。


・・・・・・・

雨が降るなか傘を持たない知り合いがいれば、声を掛けるだろう。まして、その時の俺は車だったんだから。通用口の軒下で、ぼんやりと空を見上げている人が視界に入っただけ。気が付いたら、富岡さんを助手席に積んでいただけ。少しして、なんだか暗いな…とは思いはしたが、今更降りろとも言えやしない。

ドアを閉め、走り出す。ここまで、むこうからの言葉は何もなかった。「すいません」も「ありがとう」も「ごめんね」も。普通、車に乗せて貰ったら何か言わないか? あの加納麻奈でも、サンキュ!ぐらいは言う。

一つ目の信号の手前で、家は何処ですか?とだけ尋ねた。行き先が決まらないと、こちらとしても困る。横町の少し先の…とまで言った富岡さんが、あっ、一番近くの地下鉄の駅で大丈夫です、ごめんなさい、と早口で言葉を被せてきた。

横町ならそう遠くないんで、家まで送って行きますよ。近くに行ったら詳しい道を教えてくれれば…

俺はナビを入れずに、交差点を直進した。横町なら何度も送ったことのある加納の家と方角が同じだ。高速に乗るまでもないし、今の時間なら下道を30分も走れば着くはずだ。どこをどう走ろうか、帰りは海沿いに出てみるか…久しぶりの気ままな運転が楽しみすぎて、助手席に人を乗せている事を忘れかけそうになった。

5分ほど走ったところで、車内が静か過ぎることに気付く。小さな雨粒は、車体でリズムを奏でるほどの力はなく、ほんの少しの足跡を残して風に流されていくだけ。助手席からも、あれから何も聞こえてこない。ずっと前を向いて、フロントガラスを凝視している。大丈夫ですか?車ダメでした? 横目で様子を見ながら尋ねてみた。

え?あ…大丈夫…です。

何なんだ?この人。加納なら助手席に座った途端、というかドアに手を掛けた瞬間から降りる寸前までしゃべり続けている。俺は大抵相槌を打ってるか、たまに馬鹿か?!と言う程度で会話が成立してしまう。少し息苦しくなってきた俺は、ラジオを点けることにした。なんでも良いんだ、音が流れてれば…。


・・・・・・・

どうして、そこからそういう流れになるんだよぉ…。

いや、まぁ、何となくというか、雰囲気というか…

長野がジョッキ片手に、俺を覗き込むように見てくる。帰りにちょっと付き合って欲しい、と長野を誘った。富岡さんの件、どうしたものかと…。

で、いつもはどうしてるの?

いつもって…、そんないつもじゃないよ、俺だって。

でも、しちゃったよね?富岡さんにキス…

まあな。軽くだよ。ほんとに軽く。でも、ヤバいよな?富岡さんは。

うん。たぶんヤバい。

長野が憐れむような顔で言う。

今日は会ってないの?富岡さんとは。

今日か?今日は午後からにしたから。デスクに座っちゃえば、もう背中合わせだからさ。あっちから話しかけてなんて来ないしね。

それも酷だなぁ。可哀想かわいそ過ぎだって。

なんだか長野が嬉しそう見えた。こいつ…面白がってるな。

あのひと、たぶんだけど、彼氏とか居たこと無いはず。中高一貫の女子校から短大で、今時そんな?って思うけど、あのひとマジでそういうルートらしいよ。

やけに詳しいな。

長野は、彩からの情報でっすと言って、ニコッと笑った。

彩ちゃんかぁ〜。じゃあ確実だよな。

彩は長野の彼女で、同僚だけどフロアが違うせいで社内で顔を合わすことはほぼ無いが、何度か外で会ったことがある。人懐っこくて、人の懐に入るのが格段に上手い。そのくせ嫌味なところがなく、あっさりしてる。人付き合いの天才じゃないかと思う。長野はいい女を掴んだと心底思う。

富岡さんはまずいって。

長野がまた追い討ちをかけてくる。

今までに彼氏がいようがいまいが、好きでもない人にキスをするのはまずい。そりゃそうだ。ただ、場のノリや雰囲気って時もあるのは事実だ。ようは、それが相手に通じているかどうかだ。俺は通じると思ってた、富岡さんにも。雨の日で、疲れた感じで、車の中でもやけに静かで…。

俺に、その選択肢はないわぁ。

長野が俺の妄想に入ってくる。

そりゃ、お前には彩ちゃんがいるだろうがっ!

と、訳のわからんことを叫んでる俺。いや、結城君にもハルカさんがいるじゃん!と、また長野に突っ込まれる。たしかに…。彼女・ハルカはいる。いるけど、田舎に戻って半年。もうこっちには来る気がなさそうだ…。

焼き鳥を食べながら、長野にあれこれぶちまけてみたが良い案も出ず、結局のところ何もなかった風に、今まで通り過ごすのが一番なんじゃないかということになった。人にこんなことを相談するのは、本当に生まれて初めてだ。なんかちょっと情けなくもなってくる。とにかく、あちらさんからは何も言ってこないだろうし、誰かに相談するなんてことも出来る人じゃないだろう。申し訳ないけど、世の中にはそういうこともあるんだよってことで、これも社会勉強だと思ってもらえばいいんじゃないかという結論になった。つまりは、素知らぬふり作戦だ。

たった一回、さらっと唇を合わせただけで、あれこれ要求なんぞされたら、たまったもんじゃない。おっと、何様なんだ?俺は。笑

富岡さんが彼女なんてヤバイって、とこれまた小馬鹿にしたように言う。まぁ、俺も彼女にしたいとは思わない。なら、そんなことするなって話なんだが。

ただ、この件だけは、加納には黙っておくことで意見が一致した。一応、あいつも女だ。どこが地雷かイマイチ分かりにくいところもある。勝手に暴走されたら堪らない。怪獣には火種を見せないのが一番だ。


・・・・・・・

一瞬でも、可愛いと思った俺が馬鹿だったのかもしれない。いや、もしかしたら、可哀想に見えていたのかもしれない。

何処に所属しているかよくわからない立場で(実際そんなことはないんだけど)、フロア内を一日中行ったり来たりしてる姿しか見たことがない。

特定の誰かとつつるむわけでもなく、淡々と仕事を仕事としてこなしてる感じも卒がなさそうだし、話しかけられている相手を見ていると、目上からの信頼も厚そうな感じ。あの立ち位置は、ゆくゆくはマネージャーにっていうのも充分あり得るんじゃないかと俺は踏んでる。本人がそれを意識しているかどうかは、知らないが。

ただ、感情を出すのが下手すぎて、会話が見事に盛り上がらない。本人は笑ってるつもりなんだろうが、言葉を選んでるうちに、間を外しておかしなことになってることも結構ある。相手にどう思われるか…そればかりを気にしているようにも見える。仕事だと、そんな感じは微塵もないのに。これはあれか?答えのハッキリしてる数学系は得意だが、読み取り問題がてんでダメなタイプとか?違うか……。あのままじゃ、マネージャーは無理だろうな。ま、俺には関係ないが。

女子校とか女子大の女ばかりの生活って、結構サバサバしてて、あっけらかんとしてるって聞くが、やっぱりそれも人によるんだろうな。富岡さんの、あのプライベートになった途端に漂ってくるおどおどした感じは、見ているだけで疲れるし、距離が近くなればなるほど、それが強くなることを今回思い知った。だから、もう距離を詰めたくはない。

うまい具合にほどけていく子もいるんだが、富岡さんは、そうじゃなかったってことだ。ただそれだけ。

あの時、宅配用の大きな段ボール、それも中が空の…そういうモノが肩に倒れ掛かってきているのかと思うぐらいの無機質な「こわばり」を感じて怖くなった。これからこれをほどいて行こう…なんていう情熱は、俺には湧かなかった。悪いが……。

ともかく、俺は、仕事以外、同僚以上の関係を富岡さんと築くつもりはない。ここで申し訳なさを少しなりとも感じてしまって、流されたりなんかした日にゃあ、俺が地獄を見る。

たった一度のキス。記憶から消すなんて容易い。

富岡氏とは何もなかったし、これからも何もない。




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