『グレート・ギャツビー』を読んでのちょっとした感想 ※ネタバレあり
町田康の創作講座に4年前行ったことがある。確か、京都は四条烏丸のNHKカルチャーセンター。そこで、一番印象に残った、おもろい小説を書くためのコツ。これは「秘伝のタレみたいなもので…。教えたくないんですが」と芝居がかった勿体ぶる感じで言った。「ほんまのことを書いてください」。
『グレート・ギャツビー』はほんまのことを書いている小説だなと思う。だから良い小説なんだと思う。
デイジーは、ギャツビーとのロマンチックで夢想的でそれ故に危険な恋と、トム・ブキャナンとの保守的で退屈だがそれ故に安定した恋の両方を突きつけられ、最終的には後者を選ぶ。
恋が叶わず取り残されたギャツビーの姿は、ほんまのことだなと思った。デイジーのために拵えた豪邸や、財産、地位、名声、人脈、全てが水の泡に帰する。そのダイナミズムは、失うということの静かな絶望とある種マゾヒスティック快楽を描いてるなと思った。ギャツビーの人生、全ては間違っていたのである。少なくとも、このテキストの中では。彼の善悪、もしくは、安心と不安など、さまざまな両義性の片方だけが失われ、彼の存在だけが最後に残る。(そして、それをスコット・フィッツジェラルドの時として訪れる、重層的に読み取れる詩的な文章がその宙吊りを支えている。訳者村上春樹の言うところのリズムから生まれるハーモニー)
ただ、だからこそ、ギャツビーには生きていて欲しかったなと思う。ほんまのことがむき出しになった後、殺されてしまうギャツビーは腑に落ちたし、話の流れとしてとても自然だったし、描写は退廃的ながら美しく、読んでて引き込まれた。
でも、そのほんまのことを言っている美しさの中に、ちょっと違和があった。僕的には、ギャツビーはやっちまった男として生きてて欲しかった。輝きが二度と取り戻せなかったとしても。
訳者あとがきで、村上春樹が、他に良作はあるが『グレート・ギャツビー』はスコットのインプット(ゼルダとのよくも悪くも刺激的な生活)とアウトプットがちょうど奇跡的なバランスで均衡の保たれた傑作であり、これ以上の作品はスコットにはないといった趣旨のことを書いている。最もほんまのことを書いているスコット作品は、『グレート・ギャツビー』だということだ。(その後も文学的野心を失わず、良作を次々書いたとも書いているが)
著者紹介の中で、「世界恐慌、ゼルダの病などが生活に影を落とし始める。失意と困窮のうちにアルコールに溺れ、四〇年、心臓発作で急死」とある。四十四歳だったらしい。
それについて、何か言いたいわけではない。ただ、ほんまのことを求め“続ける”ことは、一人のしがない作り手として、恐悦至極だが、僕らの世代に託されているのかなと思ったりした。生き延びるために、書きたい、歌いたいなとちょっと思った。
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